人里離れた森深く、誰も足を踏み入れないはずの場所にひっそりと佇んでいた祠はその日、バキバキと音を立てて崩れ落ちた。
風の強い日だった。急速に発達した台風によってもたらされた暴風雨は自動車を転がし、コンクリートを叩き、そして森を轟かせた。人々からの信仰を失い、ただ朽ちるのを待つのみであった祠は、なすすべもなく蹂躙された。祠の主、かつて人々に神と呼ばれたそれは、薄れゆく意識の中、在りし日のことをただ思い返していた。
数百年前、まだ人々が人ならざる者の息吹を密接に感じられた頃、神は人々と共にあった。人々は神に信仰を捧げ、神は人々に奇跡を与えた。神は信仰によって存在しうる。人々からの信仰さえあれば、さながら魔法のように、雨を降らせ、風を止ませ、疫病を治めることが出来た。捧げる人間と与える神。ギブとテイク。そんな理屈は関係なかった。神はただ人を愛していたのだ。自分より遥かに短い寿命、遥かに劣る力、遥かに脆弱な生き物。そんな彼らは自分より遥かに良い顔で笑い、泣き、生きるのだ。神は祭りを見るのが好きだった。人々の命の輝きがより一層光を増すような気がして。時には祭りに参加することもあったし、そうでなくても気まぐれに村へ降りることもあった。人々はどこにでもいる少年のような、それでいて人間には無いある種神聖なまでの気品をたたえた彼をにこやかに受け入れ、また祠に足繁く通っては、日々の仕事の合間に良く手入れをした。
それから長い時が経った。村自体はそこまで大きく変わらないものの、村の外は大きく様変わりしたようだ。黒船だの文明開化だの科学だの開戦だの、今まで見聞きもしなかったような話が村の中まで広まっていた。生まれてから、正確には神として形を成してからの数百年をこの村で過ごした神には分からない話ばかりであったが、ただ一つ、人と神が密接に関係し、助け合う時代は終わりを告げかけているということだけは分かった。以前より明らかに信仰は減り、飢饉の時も疫病の時さえも綺麗に保たれていた祠は少しみすぼらしくなっていた。最近の人々の祈りは別の神に向けられるようだった。最近の人々の悩みや苦悩は、たかだか一つの村を見守る程度の神には任せておけないということなのだろうか。自分の無力さを呪うと同時に少し寂しくもあった。
それからまた少し時間が経った。村はすっかり姿を変え、こじんまりとした家々と一面の緑は、天を撞くような建物と灰色に、夜になってもむやみに明るく、村中に響くような子供たちの声は、自動車の駆動音にとって代わられていた。人々はすっかり神のことを忘れ、この祠へ来るのも、再開発だのなんだの訳の分からないことを話している大人たちだけになった。彼らのコツコツという革靴の音を聞くたびに、少し前、同じような音を鳴らして祠へ来た若者たちのことが思い起こされた。彼らは一度祈りに来たきり、二度と帰ってくることは無かった。その少しあと、夜空では星と月以外の何かが動くようになり、また昼のように明るくなる夜もあった。多くの子供たちがここを去った。あの時来る災厄の始まりを告げたコツコツという靴の音は、革靴の彼らによって再び奏でられるようになった。彼らが森を変えようとするたび、なけなしの力を振り絞って抵抗した。死人が出ることは無かったが、彼らは次第にそこに存在するであろう何かを恐れはじめ、ついには二度と訪れることは無かった。
祠と森が守られたのは良かったが、彼らが消えると、とうとうこの場所へと訪れる者は誰もいなくなっていた。その結果が、台風を前にもろく崩れ去ったこの祠である。かつては雨を降らせることも風を止めることも自在だったのに。人からの信仰を失った神というのはかくも脆いものなのか。もう最後に人間と会ったのはいつのことだっただろう。少し前、といっても十数年は前のことになるか。ここへ道に迷って泣いている子どもが来たのが最後だろう。あの時は、久しぶりに人間が、しかも子供が来たのが嬉しくて、なけなしの力を使って顕現し、広い道へ出るまで手を引いてやったな。なんてことを考える。あれから今日に至るまで、あの手のぬくもりを時折思い出しながら何とか過ごしていたが、それももう限界のようだ。神とは人々の信仰が形を成したもの。信仰の受け皿となる祠を失ってしまっては、顕現はおろか、存在を繋ぎとめることすら出来ない。
思えば随分長く生きたものだ。昔と比べ、遥かに弱まった神力を食いつなぎ、なんとか存在を保ち続けた。それも今日で終わりである。今日までに余りにも多くのものを見た。笑顔も、苦悩も、祈りも、怒りも、慟哭も、雨も、風も、あらゆるものを。願わくば、もう一度人間が私に笑いかける顔を見たかった……なんて、欲張りすぎか。
少し前に非常に強い勢力で上陸した台風はとっくに過ぎ去り、今日の頭上には雲一つない青空が広がっていた。数年前に一度離れた故郷はあの頃と何も変わらないままそこにあった。変わったのは自分だけ、いや、あの頃から何も変われてなんかないのかもなと自嘲する。まあ少なくとも車を運転できるようにはなったか、などと考えている内に目的地へ着いた。街の中心部から外れた場所にある山。車を降り、少し体を伸ばすとそのまま登っていく。なんでもこの山は曰く付きらしく、俺が生まれる前にあったゴルフ場を造る計画が、祟りとやらで頓挫したらしい。まあ今から行く場所を考えると、本当にそんなことがあってもおかしくないのかもしれない。人々から忘れられた山のさらに奥、衛星写真でもないと見つけられない場所にそれはあった。少し前の台風のせいなのだろうか、足は折れ、ボロボロに崩れてしまっている。
「うわ、ひどいなこれ」
もしかしたらとは思ったがやはり壊れていたようだ。元から経年劣化でひどく痛んでいたのだから無理もないか。この場合はどうすればいいんだ。ホームセンターとかで材料を買ってきて直せばいいのか。いや、その前に土地の管理者に聞いた方が?市の人に入っていいか聞いたときに一緒に聞けばよかったな。それにしても、たとえボロボロになっても、あの時感じた妙な頼もしさは変わらないままだ。十数年前、迷子になってここにたどり着いたその時と。あの頃は気づいたら大きな道に出ていたが、もしかして祟りを起こしたと噂される神様が助けてくれたとか?いや、ないか。
男はそこまで考えると、自分の考えを否定するように少し笑った。
