老いぼれ

割れた陶器の欠片を前にしてアキリオスは悩んでいた、果たして本当にその名前を書いてもいいのかを。

「いくら彼自身の人間性に問題があるとして、しかし彼が先の海戦の英雄なのも事実だ」

アキリオスはひとつテミストクレスを擁護するような言葉を呟いてみるが、「しかし……」と首を捻る。民会で指摘された通り、テミストクレスが僭主となってしまえば、ただでさえスパルタの反感を買っている軍事強化が加速されるだろう。さらに、あの尊大かつ自己顕示欲の塊のような性格を考慮すれば不要な戦を始める可能性も低くない。アキリオスとてその程度のことは理解していた。それでも悩むのは陶片追放という制度そのものに彼が疑問を抱き始めていたからだ。

クレイステネスがアルコン(執政官)に選ばれてから20年が経って、ようやく実現した陶片追放の制度。クレイステネスの古くからの友人であったアキリオスは、アルコンになったばかりのクレイステネスに陶片追放の利点について散々聞かされたものだった。そんな陶片追放が導入されてからさらに18年が経とうとしている。

陶片追放によって、ヒッパルコスやクサンティッポス、アリスティデスなど決してその数は多くは無いが追放された人達がいる。その中には根も葉もない悪評によって追放された人や、組織票によって追放された人が居ることをアキリオスは知っていた。アキリオスにとって今回の陶片追放もそれと同じ匂いがした。テミストクレスが追放されても良い人物なのか、彼にはいまひとつ判断が出来なかった。

「外に出てみるか」

アキリオスは気分転換に外を散歩することにした。サンダルを履いて、アゴラ(広場)へと向かえば人だかりが目に入った。それは盲目の者や字を書けない者が代筆を頼む行列で、代筆屋は評議会から規定の報酬を貰う代わりに代金を取らずに注文された通りの名前を陶片に書く。これもクレイステネスの、民主制にこだわる彼らしい案だった。字が書けるアキリオスにとっては無縁の行列ではあったが、しかし彼は初めて今日それに興味を持った。列の横を通り過ぎ、先頭で代筆を行っている男のそばに立つ。代筆屋の男は黒目を動かし一瞬だけアキリオスのことを見たが、また直ぐに陶片への記入を再開した。「テミストクレス」と書き、男はそれを渡す。次に来たのは杖をつく老婆だった。その目の運ばせ方を見て、老婆が視力を失っているんだとアキリオスは推測した。

「ドメニコス、と」
「あいよ」

老婆が口にしたのは最近幅を利かせ始めている政治家の一人の名前だ。どうにも良くない噂のある人物で、アキリオス自身もテミストクレスを除けば第一に陶片に書こうと考えていた候補であり、アキリオスは老婆の慧眼に驚いた。それとは対照的に代筆の男は気だるそうに返事をし、平然とした顔つきで、全く躊躇いもなく陶片に「テミストクレス」と書きなぐった。そしてそれを老婆に渡せば、老婆は「ありがとうございます、ありがとうございます」と杖をつきながら投票所であるアゴラへと向かってしまった。
この行いにアキリオスは堪らず、代筆屋の男を連れ出してこう尋ねた。

「これは誰かに頼まれてやっているのか?」
「さあ? 知らねぇな」

男はそうアキリオスを睨む。仕事の邪魔をされているのだ、当然だった。

「そうか……いや、悪かったな。邪魔をして」

アキリオスは銀貨1枚を男へと投げ、男はそれを慌てて拾おうと身をかがめる。男が顔を上げた時には既にアキリオスは遠くへと去っていた。

帰路に着く中で、アキリオスはクレイステネスの顔を思い出そうとしたが、モヤがかかったようにその輪郭は浮かばない。思えば彼がアルコンとなって、数年が経ってからはほとんど会うことも無くなってしまった。それは単にクレイステネスが日々の政務に忙しいからであり、加えてここ数年で言えばもうお互いに老いぼれだったからである。

「時には逆らえんな」

家のドアを開けるのにも一苦労する自分に対し、アキリオスはため息をつき、また机に座れば陶片に「テミストクレス」と書いた。

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