投げ入れ岩

今から話すことは実際に俺の身に起きた体験談だ。内容が内容なので信じて貰えないかもしれないし、俺も当事者じゃなければ信じないだろう。だからこれはあくまでも記録として、ここに記すことにする。長いかもしれないが興味のあるやつは読んでくれ。

俺が大学二年の頃の話だ。当時の俺は念願の一人暮らしを謳歌し、授業をサボって飲み会に行き、サークルにそこそこ顔を出すような典型的な大学生活をそこそこに楽しんでいた。
夏休み、バイトも休みになるお盆に俺はいつもつるんでいたKとNという男友達とちょっとした旅をすることにした。親からは「帰省しろ」とLINEで連絡が来ていたが、正直言って高い交通費を出して見たくもない親戚の顔を拝むよりかは友達と遊ぶ方が魅力的だった。KとNも同じような考えで、親不孝者三人で雀荘で燻っていても仕方ないのでどこか行こうということになったのだ。俺とKとNが仲良くなったのはバイクサークルというほとんど活動していないサークルの新歓で、都合のいいことに三人とも免許と安物ではありながらもそれぞれ自分のバイクを持っていた。
そういう訳で俺たちはツーリングをすることにした。

道中は他愛も無い話をしながらの、のんびりとしたものだった。やれあのサークルの誰が可愛いだとか、やれアイツとあの子がヤっただとか、馬鹿らしい話をしながら風を浴びていれば、いつのまにか目的の宿に着いていた。

詳しい場所は伏せるが北陸地方の海沿いにある民家とだけ言っておく。民家と言っても民泊用にリフォームされているので、温泉はあるし、客間も俺たちが泊まる部屋ともう一つあるそこそこ大きなものだ。女将さんの話によると、普段は娘さんと二人で暮らしているが、夏のこの時期だけ民泊として部屋を貸し出しているらしい。人気所は予約が埋まっていて少し寂れたそこで妥協となったけど、海から100mも無いし、なにより温泉がNと俺の心を惹いた。少し寂れてはいるものの、男三人の飾らないノリには丁度良かった。

なんとなく旅館の位置関係を解説しておく。一階部分は玄関を除いて後は女将さんとその娘さんの生活スペースで、二階部分に8畳程度の客室が並んで二部屋あって、階段を登って手前側が俺たちの部屋だった。ちなみに女将さんによるともう一部屋の宿泊者も今日から泊まるとのことだ。肝心の温泉はあとから家の横にくっつける形で増築されたようで、一階の階段の横に連絡通路があってそこから行けた。

着いた頃には夕方だったので、とりあえず俺たちは荷解きだけして部屋でくつろぐことにした。それから旅館の海鮮がふんだんに使われた夕飯を堪能した後、温泉に入る前に少し外を散策しようというKの提案に俺たちは乗っかった。温泉に入る前に一汗かくのも悪くなかったし、なにより俺は散歩が好きだった。

旅館を出て砂浜に行けば人ひとりっ子居ない貸し切り状態だった。俺はなんとなく「他の散歩客が居てもいいと思うが」と少し不安に思った。しかしKとNがテンション高く砂浜へと駆け出していったので、俺もその空気に流されていつのまにかその不安を忘れていた。

左、地図的に言えば西に行ったところで観光地としての砂浜が永遠に広がっているだけの退屈な風景が続くことは理解していたので俺たちは砂浜を右、つまり東に歩いた。その方面は人が入ることが想定されていないようで、砂浜は直ぐに終わり、代わりにごろごろとした岩が転がる海岸が現れた。陸側は林で、ほとんど人の手がついていないように思えた。俺たちは左から波が打ち付ける音を聞きながら、少し濡れた岩の上をどんどんと進んでいった。

俺「K、そこフナムシ山ほど居るぞ」
K「うわっ、きしょ!」
N「あぁ〜……フナムシぃ?」

弱いくせに調子に乗って酒を飲みまくったNは会話出来ているのが出来ていないのかうわごとのような返事をしているが、夜の海風はその火照りを冷ますのにもちょうどいいと思った。

K「なんだ、あれ」

その時、先頭を歩いていたKが前を指さして立ち止まった。

岩、があった。

岩だ。普通の何の変哲もないはずの岩。なのにそれを見た瞬間、俺は「嫌だ」って、理由もないけど強く感じた。本能的な忌避感みたいなやつだ。というかKもそうだったんだろう、そうじゃなければ岩を指さすはずが無い。高さは俺の目線よりもすこし低いぐらいだったから1.6mほど、横も同じぐらいだったと思う。大きさは普通なんだ、なのにそれだけが目立っていた。それを視界に入れた途端に鳥肌が立った、不安定感っていうのか? 大きな本屋とか図書館に言った時に起きる膨大な情報量を前にして足元がおぼつかなくなってトイレに行きたくなるあの感覚に似てる。ただ、あくまでも似ているだけで、それよりもずっと嫌なものだった。見ているだけで悪いことしている気分になり、心臓が締め付けられるような息苦しさがあった。俺はKよりも少し後ろで、同じように足を止めた。
しかしNだけはどんどんと進んでいく。ふらふらと千鳥足で。

俺「おーい、止まれ止まれ!」
N「んぁー?」

呼び止めるが相変わらずうわの空の返事で無駄だった。あのままでは岩につまづいて転びかねない。結局心配でついて行かざるを得なかった。

岩との距離2mほどまで近付いて、俺とKは再び立ち止まってしまう。その岩がしめ縄のような、太く手作業で編まれたであろう縄でぐるぐる巻きに縛られていることに気付いたからだ。縄には無数の御札がくくりつけられてあって、なにより恐ろしかったのはその縄が黒い何かで編まれていたことだ。黒かったから近付くまでその縄に気付けなかった。
Nだけはもう岩に触れられるほどの距離まで近付いていた。

N「あ? これ人間の髪の毛じゃね?」
俺「は?」
N「ほら、コレ見てみろ!」
K「おいやめろって!」

Kの制止を無視してNは黒い縄の一部を親指と中指で挟んでぶちっと引き抜く。そして俺とKに見せてきた。それはまるで昨日引き抜いたばかりのような艶やかな黒く長い人間の髪の毛で、俺は寒気のようなものを感じて思わず目を逸らした。もし本当に、人間の髪で作られたとするならば、岩を何周もしているこの縄は一体何人分のものなのか想像もできなかった。

N「……おい、なんだ」

俺とKがそれが髪の毛である事実を飲み込むために黙り込んでしまったその時、Nは突然岩から目を離して、こちらを向いて低い声でそう言った。その声に俺がNの目を見れば、その言葉が俺たちではなく俺たちの奥に発されていたものであると分かった。明らかに俺たちの背中側、海の方にNは意識が向いている。俺もKもお互い目を合わせたあと、二人揃ってNの見ている方向、つまり後ろを見る。何も居ない。ざばざばと波が岩に当たる音と、少し塩を含んだじめっとした風が吹いているだけだ。何も居なかった。

N「なんだ、おい……なんなんだお前」

しかしNは何かに問いかけ続けた。最初不審気だった語調は徐々にその何かに怯えているような、震えた声になっていった。

K「どうした、誰に言ってるんだ?」
N「おい来るなっ! 近づくんじゃねぇ!」

Kの質問にも答えずNは叫び続ける。再びNの方を見る。ついさっきまで酒で赤くなっていた顔色は、まるで死人かのように真っ白になっていて、瞳孔は開いて唇は震えていた。その視線の先はやはり海へと注がれている。目の前にいる俺たちのことなど見えていない。なにより目を引いたのは海に入ったのではないかと勘違いするほどに汗で濡れているNの全身だ。ぼたぼたと顎から地面に落ちる雫が、Nが海から逃げようと後ずさるのにつれて線を描いていた。到底、正常とは思えない。

N「来るなぁっ!!! くっ来るなぁ!!!」
俺「お、おい、大丈夫……か?」

ここまで取り乱したNを俺は見たことがなかった。それはKも同じなようで、お互いどうしていいか分からずその場に立ち尽くしてしまう。もう何か良くない何かに巻き込まれていることは理解していた。だが、Nを置いていくことも出来ない。だから立ち尽くした。
後から思えば最適解はNを無理やりにでも抱えて逃げることだったんだろうが、そんな当たり前の結論にさえその時は至らなかった。実際に原因不明の異常を前にすると脳がフリーズするんだ。頭の中はずっと「どうしよう」しか無かった。

N「ぁ……あ……」

ぱさっ、聞こえるはずもないが髪の毛で編まれたしめ縄に縛られた岩とNの背中が接触したような音がしたような気がした。次の瞬間にはNは岩にもたれかかるようにして気を失っていた。

◇◇◇

完全に伸びてしまったNを2人がかりで背負いながら旅館に帰ると、玄関口で女将さんが待っていた。出ていったのを見ていたようで、帰るのが遅くて心配だったそうだ。小さな家族経営の旅館ならではのお節介、普段なら少し鬱陶しく思っていたんだろうが、その時は優しい顔をした女将さんの顔を見てホッとしたのを覚えている。

女将「その、背負われているご友人は……?」
K「あの、N、俺の友達なんすけど、そのNが気失っちゃって。多分酒の飲みすぎなんすけど」
女将「そうでしたか……この辺は病院もありませんのでとりあえず今晩はお部屋でお休みなさるのが良いかと」
K「あ、そうなんですね。そうさせてもらいます」

Kは女将さんに頷いて部屋に戻ろうとする、が俺はどうしてもあの岩について聞きたかった。

俺「あの」
俺「海岸沿いになんか異…質な、変な岩があったんすけど」
女将「……岩ですか?」

まるで心当たりが無いというように女将さんは復唱して首を傾げてみせる。が、岩という単語を聞いた瞬間、僅かに女将さんの眉が動いたのを俺は見逃さなかった。

俺「はい、なんか封印、してるみたいな……。なにか逸話とかが?」
女将「さて、わたくしはそういった話は聞いたことがありませんが……ただあの辺りは足場も悪いので……」

女将さんは壁にかけてある時計に目をやった。

女将「……今日はもう遅うございます、その話はまた明日にでも。湯の方も閉める時間が迫っておりますので、どうかお早めに」

◇◇◇

客室には既に布団が敷かれてあったので、Nをとりあえず寝かせ、俺たちは温泉に向かうことにした。冷や汗とNを運ぶ重労働で汗だくだったのだ。と言ってもどうみても普通の状態では無いNを放って行くわけにはいかない。ジャンケンをして勝った方が先に温泉に行くことにした。そして俺が勝った。

◇◇◇

温泉には既に先客が一人居て、俺は一瞬驚いたが、女将さんがもう一人宿泊者が居ると言っていたのを思い出して、「あぁこの人が」と納得した。20代後半くらいだろうか、見た目は若く見える。同時に少し退廃的な雰囲気もあって、若さに見合わない貫禄のようなものを備えている人だった。

俺「こんばんは〜」
男「あ、こんばんは」

折角だから俺は少し喋ることにした。こんな辺鄙な場所で出会った縁というのは面白いのもあるし、なにより小さな温泉で無言で二人入るのは気まずかった。
それは向こうも同じだったようで、湯船に浸かりながらお互い自己紹介と、なぜここに来たのかとかそんな話をした。その男は大学教授だった。この土地周辺の土俗を調べに来たとかうんぬんかんらしく、当時の俺は土俗が何なのか分からなかったから、適当に感心した素振りをした記憶がある。
いよいよ話すことが尽きた時、俺はさっきの奇妙な体験を共有することにした。誰かに話すことで安心したかった、みたいなところだと思う。今思えば、本当にこの時に話して良かった。そうじゃなければ、俺は今こうやって生きていなかっただろう。

俺「あーそういや、さっき変なことがあったんですよ先生」
先生「変なこと?」

先生、というのは彼が大学教授だから勝手に俺がそう呼んでいるだけだ。先生は俺のことを苗字で呼んでいたがここでは「Oくん」と表記してく。

俺「さっき海岸沿い散策してたんですけど、なんか変な岩があって。明らかにヤバいっていうか、お札とか貼ってあるし」
先生「岩……ふむ。Oくん、その話詳しく聞かせてくれないか」

先生は岩という単語にすっと目を細め、さっきまでの和やかな雰囲気から一変、真剣モードでこちらに向かい合った。その先生の変貌ぶりに俺は少し驚いたものの、話せと言われなくとも話すつもりだったし、出来る限り詳しく何があったかを先生に説明した。先生は俺の話を食い入るように聞き、しきりに頷きながらも決して話を遮るようなことはしなかった。ただ一度だけNが岩に触れたと言った時だけ、深くため息をついた。

先生「ひとつ聞きたいんだが、その岩を縛っていた縄はもう全て髪の毛に変わっていたのか?」
俺「まあ……全部髪の毛でしたね」

変わっていた、という表現に俺は少し首を傾げながらも答える。

先生「既に今年は始まっていたか……Oくん、その岩に触れた彼はマズいかもしれない」
俺「マズいって……何か知っているんですか」
先生「当然だ、私はその岩、投げ入れ岩を調べに来たからね」

俺は先生に岩について話を聞くことにした。

先生「あの岩はね、ある少女を……もしくはそのカタチをした何かを封じるために存在しているんだ」

少女という細かい点を省けば、正直その先生の言葉には驚かなかった。明らかに意味ありげな御札と髪で雁字搦めにされたあの岩は、どうみても良くないものを宿しているように見えたからだ。それに霊感の無い俺でも、直感的にも分かるほどに嫌な気配だった。

先生「詳しい時代は分かっていない。まだ科学が呪術だった時代、まだ信仰が色濃く残っていた時代に少女は生まれた。少女は生まれながらにして不思議な力をその魂に宿していた。自身の髪を少しだけ動かせるというものだ。別に何かに役立つほどのものでもない、ちょっとした日常の不思議としてそれは受け止められていた」
俺「髪を……」

嫌でもあの岩に巻き付けられていた髪の毛が連想される。

先生「子供が7歳を超えることが珍しい時代だ、特に人口の少なかったその村で、少女は周囲の人からも可愛がられながら育っていった。そして彼女が15歳ほどになった時、干ばつが起こる」

先生はいい加減のぼせそうだったのか湯を出て、へりに腰を下ろしながら話を続ける。

先生「記録によれば雨が降らない期間は一ヶ月ほど続いたと。川は干上がり、生き物は死に絶え、極度に乾燥した空気は山火事を起こした。体の弱い年寄りから死んでゆき、徐々に若者も動けなくなっていった。食べ物どころか飲み水さえ不足した世界で、村民たちは雨だけを望んでいた。どんなものを犠牲にしようとも、雨さえ降れば良かった。だから村民たちは人柱を立てることにした。それも最も神に近い、異能を宿した少女を、だ」
俺「……」
先生「儀式は滞りなく進行した。例の岩の場所で少女は生きたまま体を切り取られた。まずは髪、次に指、手、足、腕、それらは全て海に捧げられ、最後に残った体も海へと投げ入れられた」
俺「なんというか……」
先生「残酷、だろう。年端もいかない子供を生贄にするなんて今では決して許されないことだ。だが当時ではそれが正当とされていたんだ」
俺「結局、それで雨は降ったんですか」
先生「あぁ、幸か不幸か、その翌日に雨が降ったらしい。村民たちは少女に感謝した。再び村は日常へと戻り、平穏な毎日が続いた。だが、しかし……」

その時、風呂場にKが飛び込んできた。

K「来てくれ! Nが!!」

◇◇◇

部屋に戻って、中央で仰向けに寝るNを見て俺は唖然とした。Nの体の節々に何か紐のようなもので締め付けられたような真っ赤な跡が残っていた。Nは目を瞑りながらも苦しそうに胸を上下させ、唇噛んで何か痛みに耐えているようだった。

K「寝たまま急に苦しみ始めて、体を掻き毟っていたから服を脱がせたんだ。かぶれているのかなって。そしたら……こんな風に」

Kはそう言って、Nから目を逸らした。
先生の話は途中で終わってしまったが、俺は馬鹿じゃない、つまりNの身に起こってるのが非科学的な力、呪いのようなものだと理解していた。そしてその呪いの形を目の当たりにして、さっきまで温泉に入っていたというのに自分の全身が凍りついていくのを感じた。

先生「締め付けられた跡、少女の切断部分と一致している」

先生がぼそっと後ろで呟いた言葉、それに気付いた途端に全身の毛が逆立つ。手と足の指の関節、手首、足首、膝、肩、確かにその切断部分だけが赤くミミズ腫れしていた。

K「この人は?」
俺「隣に泊まっている人、あの岩の研究者らしい」

Kと先生が挨拶をし、さらにさっき俺に話してくれた内容と同じことを先生がKに伝えている間、俺は出来るだけNの傍に居てやることにした。Nは悪夢を見ているのかしかめっ面で額に汗を滲ませている。息も荒く、口呼吸ではぁはぁと息切れしていた。

Nの口が開いている。
穴みたいだ。

そう頭の中で想像した瞬間に俺は自身の体の主導権を何かに奪われた。「あ、ヤバい」って思ったけどもう遅かった。Nがぽっかりと開けている口に目が近づいて行く、何かに引きずり込まれていくような感覚に俺は捕らわれ、声も出せない。真っ暗闇の世界で前後不覚の状態、もがいても決して抜け出せないと俺は直感した。
そんな中、俺は「知ってる」って思ったんだ。なにか覚えがある、この感覚を俺は知っているって。この穴の奥に何かがある、そう誰かが言ったような気がして俺は懸命にNの口の中を潜っていった。
深くて暗くて冷たくて、でも暖かくて不安定で苦しい。それはまるで、

まるで、海のようだ。

K「おい! 大丈夫か!?」
俺「かっ……がはっ……げほっ」

気付けば俺はNの隣で同じように仰向けに横たわっていた。それを心配そうにKが上から覗き込んでいた。

先生「Nくんも大丈夫そうだ」
K「良かった……」

俺「な……んんっ……何があったんだ?」

喉が酷く痛いし喋りづらい、だが無理やりそう聞けばKは頭を横に振った。

K「分かんねぇよ、いきなりお前がバタンって倒れて、それで駆け寄ったらお前もNも息してねぇし」
俺「俺が倒れた……?」
K「先生が溺れてるって言って、二人ともに水吐き出させて……何が起こってんだよ本当に……」

Kはもう限界なようだった。泣きそうになりながら、状況を説明してくれ、俺はそこまで言われてようやく初めて自分の上半身がびしょ濡れなことに気付いた。畳も随分と濡れてしまっている。
俺は何となく襟に付いた水を取って舐めてみた。塩辛かった。

◇◇◇

翌朝、目が覚めると既にNは起きて歯磨きをしていた。俺は慌ててKを起こして、Nに具合を聞く。

俺「N、もう大丈夫なのか?」
N「何が?」
俺「何がって、昨日、お前……」
N「昨日? クソほど酔ったのは覚えてるけど……なんかやらかした?」
俺「いや、覚えてないならいいんだけど……」

何も異常がなさそうなNにKはホッとしたような表情をしたが、俺は何もしていないのに呪いが解けたことのほうがよっぽど不気味だった。

K「後で先生に言っとかないとな、もう大丈夫そうだって」
俺「いやどうだろ、一応行って損は無くないか」

俺とKは声を殺して相談する。
行く、とは寺のことだ。昨日の夜、俺が溺死しそうになったあと先生が知り合いのお坊さんに連絡をしてくれ、今日の昼に約束を取り付けてくれたのだ。昨晩の段階ではそこまで先生が車で送ってくれる手筈だったんだがNがここまで完全復活するのは正直予想外だった。

◇◇◇

女将さんが運んできてくれた鮭と玉子焼き、白ご飯と納豆というお腹に優しそうな朝食を食べながら、昨日のことについて出来るだけ怖がらせないように俺たちはNに伝えた。Nは始めのうちこそ冗談だと思って笑っていたが、実際に畳に残ってる水跡や自分の体にある赤い傷跡を見て徐々に青ざめていった。

K「どうする? 一応治ったぽいけど、寺行くか?」
N「行って……おきたいなぁ、さすがに」

本人がそう言うならもう何も言うことは無い。大事を取って損することもないだろう、ということで予定通り俺たちは朝食を食べた後に先生と合流して寺に向かうことにした。

K「おい……O、お前」

その時、ご飯を食べるKの手が俺を見て止まった。

俺「なんだ?」
K「何、食ってんだ?」

Kは信じられなものを見たと言いたげに目を丸くして口に手を当てながら俺が箸で掴むものを凝視していた。一体何を言っているんだ、ただの玉子焼きじゃないかと俺は、既に齧った玉子焼きに目を落とす。それは想像していたよりも、かなり真っ黒で……

俺「は?」

黒くて細い何かが集まった塊が玉子焼きの中にびっしりと詰められていた。髪の毛の束だ……。自分でも意味が分からなくてフリーズする。さっきまで確かに俺は玉子焼きを食べていたはず、食感も味も覚えている。なのに目の前には髪の毛の塊があった。慌てて自分の口内を舌で探れば、糸のようなものがあることに気付いた。それを指で引っ張り出す。やはり髪の毛だった。口に残る妙な食感だけがただ気持ち悪かった。

K「お前……大丈夫か?」

ふと視界の端に黒い影が見えた。立っている何かの影が。

俺「あ……」

所々赤く染っている白い和服を来た女、そいつがいつの間にか音もなくKの後ろに立っていた。全身濡れていて、ぼたぼたと畳とKの肩に水滴が落ち続けていた。黒く長い髪の毛は顔を隠しているが、首が異様なほどに落ちていて、人間の形をした人間でないものという表現が一番しっくりくる。まだ午前中で部屋が明るいせいで余計にその女の輪郭が浮き上がっていた。

俺「お、おい! K、うっ、後ろ!」

それを見た瞬間、自分の血の気が引いていくのが分かった。どうにか声を振り絞ってKに叫ぶ。叫びながら俺は無意識の内に手で自分の体を後ろへ後ろへと運んでいた。

K「後ろ……? 何も居ないけど……まさかお前も?」

俺は頷くことしか出来なかった。とにかく恐ろしい。それが見えているだけで息が出来なくなるほどに恐ろしかった。
そんな中で、ふと「Nは大丈夫なのか?」と思い(なぜか自分の中の一部は冷静にNの心配をしていた)見れば、Nは俯いて固まっていた。この異常はKにも見えているようで、Nの顔を覗き込んでいる。

K「ダメだ、反応がない! 先生に言ってくる!」
俺「あっ待っ……」

Kは走って部屋を出ていってしまった。
それは動かない、ただ立っているだけだ。俺はそれをずっと見ておかなければいけない、そうでないとそれがこちらに向かってきてしまうという強迫観念を抱き、しかしそれを見つめすぎると気が狂ってしまうのではないかという妄想にも取りつかれた。
俺はその場でうずくまって畳に額を付け、耳に指を突っ込んで目を瞑ることにした。もはや現実を直視することすら限界だったんだ。目を瞑ったところで、まだそれが傍にいる気配がする。それの姿はまぶたの裏に張り付いていてだけで息が詰まるほどに恐ろしい。聞こえるはずがないのに、ぽたぽたと水滴が落ちる音を想像して身の毛もよだつような恐怖に襲われる。
その時、水滴が俺の首筋を何かが伝っていくのに気付いた。それが垂らしていた水滴が、俺の首に落ちたということは、それは俺のすぐ傍に立っている。絶対に居る。
その時、トントンと俺の俺の肩を何かの手が叩いた。一瞬、心臓が止まるんじゃないという程に驚いたが、俺の肌に触れた時にその手は暖かくて乾いていて、それで俺はようやく目を開けた。それは先生だった。

先生「今すぐ行こう、大丈夫だ、心配ない」

Kは動かなくなってしまったNの腕を自分の首に回して立たせている。その奥で、やはりそれはこちらを見ていた。

K「まだ見えるか?」
俺「あ、あぁ、そこに……」
先生「無視するしかない。もう少しの辛抱だ」

俺は出来るだけ下向いて、先生について部屋を出た。俺がそれの所在を知っておきたくて一瞬だけ後ろを見れば、それは一歩も動いていなかった。ただこちらに顔を向けていた。

◇◇◇

寺は俺たちが訪れた町よりも随分離れた山奥にあった。詳しい場所は後述の理由のため言えないが車で2時間ほど走ったから、少なくとも同じ市ではないだろう。
お坊さんは優しそうな笑顔を貼り付けたまま俺とKを出迎え、またNを見て残念そうな顔をした。

お坊さん「これは……アレにえらく気に入られてしまったようですねえ」
K「アレって……生贄になったという少女ですか?」
お坊さん「えぇそうです。残念ですが、こちらの方はもう駄目ですね。完全に入られてしまってます」
K「駄目……って、そんな! なんとかしてくれるんじゃないんですか!?」

Kはお坊さんに食ってかかるように反論するが、正直俺はそれどころでは無かった。もうそれの姿は見えないが、それなのにまだ水音が絶えず聞こえていた。それに締め付けられるような痛みが首や関節に走っていた。恐怖で頭がおかしくなりそうだった。俯いて痛みに耐える俺の様子に気付いたのか、お坊さんはKを無視してこちらに話しかけてきた。

お坊さん「君はまだ異変を感じているのですか?」
俺「はい……」
お坊さん「ふむ……○○さん(先生)、そこの彼を遠くに連れて行って貰えませんか。離れるだけで普通は力は弱まるんですが、『憑かれ』が居るとそこを媒介にやって来るかもしれません」
先生「分かりました、その二人をよろしくお願いします」

先生がお坊さんの指示に従ってNを連れて帰る。その際、お坊さんが先生に何かを渡していたが、それが何かは分からなかった。

それから俺たちは寺の中に案内され、遂にお祓いが始まった。これも後で述べる理由で絶対にここには記せない。ただ、ひとつだけ言うとすれば信じられないほどに簡単なものだった。

俺「ありがとうございます……本当に、本当にありがとうございます!」

目に見えない変化ではあるが、しかし絶対に祓えた、とそんな実感があった。実際に水音も聞こえなくなっているし、重苦しかった空気は清々しいほどに消えていた。Kも俺の変化がよっぽどだったのか、同じようにお坊さんに何度も頭を下げた。そんな俺にお坊さんは微笑み、また「知っておいた方がいいでしょう」と、あの日先生が言いかけていた伝承の続きを語り始めた。

◇◇◇

お坊さん「無事に雨が降り出し、生活が元に戻り始めたある日、村民の一人が少女の声を聞いたと言い始めました。その男は少女は俺たちを恨んでいるから何か捧げ物をしなければいけない、そうしなければ皆殺しにされると、物凄い剣幕で村長に訴えたそうで。村民も人柱となった少女に対して感謝と謝罪の気持ちがあったので、その訴えを受け入れたのです」

K「一体、何を捧げたんですか?」

お坊さん「何を捧げるかは少女の声を聞けるものが指示しました。初めこそは玩具やおにぎり、饅頭といった小さなものだったので、村民たちは機会があればそれらを例の岩のところに行き海に放り投げました。しかし、それがそのうち、猫や人間の爪、虫の死骸など徐々に異質なものへと要求が変わっていき、また少女の声が聞こえる人間も徐々に増えていきました」

お坊さん「そしてある日、遂に村人たちは捧げ物を辞めます。あまりにも要求がエスカレートしすぎている為に辞めたのです。しかしそれが引き金でした。その日の夜、少女の声を聞いたと言っていた村の人間の約半数が溺死したのです。それも地上で、です」

俺の身に起こったことと同じだ。陸上だと言うのにも関わらず、意識だけを深海に引きずり込まれるようなあの感覚。再び思い出して俺は身震いした。

お坊さん「残った村民は隣の村の僧侶を呼び、僧侶は三日三晩経を唱え続け、ようやくそれを岩に封じ込めました。しかしそれでも不十分でした。年に一回、この時期になると封印が弛むんです。その印として、封印のしめ縄が髪の毛に代わり、それは恨みを晴らすように人間を取り殺し、また力を使い切ったそれは再び次の年まで封印されます。これが毎年繰り返されているのです」

K「毎年? ってことは毎年のようにお坊さんは祓ってるんですか?」
お坊さん「いえ、基本はこんなことしません。祓うということは、アレから捧げ物を奪うような行為で本来はしてはいけないのです。余計にアレが暴れるでしょうから。だから今日のお祓いの方法も、この場所も決して部外者に漏らさないで頂けますか?」
俺「えぇそれは分かりました。でも、じゃあなんで今回は……」
お坊さん「私が救うのはあの町の人間以外が、奇跡に奇跡を重ねてここにたどり着いた時のみです。そう、本来はあなた方はここに辿り着けるはずが無かったのです」

意味深なお坊さんの言い方に俺とKは眉をひそめる。

お坊さん「あの町の人間は一人残らずね、外部の人間を生贄にするつもりで観光業を営んでいるんです。だから呪われたと知られれば、絶対に町の外、アレの影響が薄まる場所に逃がすはずが無いんです」

お坊さん「あなた達は非常に運が良かった。生贄を求め続けるあの町から出られたのは、単に○○さん(先生)と繋がりがあることがバレていなかったからです。あなた方だけでは決してあの呪われた町から、出ることは叶わず、ただ生贄として捧げられていたことでしょう」

◇◇◇

家に帰ってきてから数日後、何かが家に届いた。鞄だ、あの日放って帰ってきてしまった鞄。受け取った彼女は差出人のところを読み上げた。

彼女「○○旅館からだって……知ってる?」

○○旅館、もちろん知らないはずがない。荷物もそのままに出ていった客の荷物、気を利かせて送ってくれたんだろう。でも思い出したくもなかった。俺は出来るだけ平成を保ってこう答えた。

俺「……この前の旅行で忘れてきたやつかな」
彼女「鞄ごと忘れるって笑 端に置いとくよ」
俺「うん、ありがとう」

俺が昼寝をして、再び目を覚ました時には既に彼女は洗面台で溺死していた。俺の足元には鞄が転がっている。チャックは開いたまま無造作に閉じられている鞄の端からは、黒い髪の毛の束がはみ出ていた。

「O様、荷物のお忘れ物がありましたので送らせて頂きました。バイクは郵送出来ないので預かっておきます。また来年の夏、いらっしゃって下さい」

一緒に送られてきたであろうそんな手紙が床には落ちていた。

◇◇◇

秋になって俺はようやくその鞄に手を付けて、例の寺に持っていった。お坊さんから「封印が戻ったからもう髪の毛を触ってもいい」と連絡があったのだ。またそれから、あの旅行ぶりにKと会ってNの家に行ってみることにした。結局あの後、Nがどうなったのか俺とKは知らない。だから、怖くはあるが知っておくべきだろうと、確かめることにしたんだ。Nは実家暮らし、なんだかんだ全て元通りという訳には行かないだろうが、そこに居るんだろうと俺とKは思い込んでいた。しかし、Nの実家は何もかも引き払われていてもぬけの殻と化していた。

 

投げ入れ岩についての話はこれで終わり、これで全部だ。別にオチがあるわけでも無いけど、ただ知って欲しかった。人の悪意が呪いを産み、人の悪意が呪いを押さえつけている事実を。みんなも北陸地方に旅行に行く時は気を付けてくれ。決して髪の毛に触れるな。

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