黒と雫

――オレたちの関係は、後ろ暗い、お世辞にも健全とは言えないものだった。

「ハァ、ハァッ……ウッ、ケホッケホ」

「ルリ」

苦しそうな背中をさすってやると、ルリの呼吸は少しずつ収まってゆく。

「ハー、ハー……」

「大丈夫か」

「……また、いつもの」

苦痛にゆがむ顔を必死に整えようとする、その表情がより痛ましさを増していた。

「大丈夫。オレが守ってやるから」

もう何度目か分からない言葉を吐くと、ルリはようやく安らいだ顔で目を閉じた。

 

1普通とは

ルリはオレの幼馴染で、もう十年余りの付き合いになる。いつも明るく優しい子だった。――数年前までは。

今のルリは笑うことはほとんどない。憂いを帯びた目を伏し目がちに落とし、夏でも長袖ロングスカートの黒いドレスを着る。大学に入ってもう半年だというのにルリには誰も寄り付かなかった。というよりルリが、寄せ付けなかったのだ。このままではいけないと思いつつ、どうすることもできないままオレはただルリの側にいた。

「……ねぇ、ねぇ!課題!」

小さな声に思考を現実に引き戻され、目を向けると隣の席の女子がジェスチャーで黒板と手元のプリントを指していた。授業内課題が出たことを教えてくれているらしい。

「ありがとう」

するとその女子はパァッと笑った。

授業は10分前に終わった。終わるや否や「ね、時々授業被ってるよね。もしかして1回生?」と話しかけてきた。正直同じ授業かどうかなんてあまり記憶にないが「まぁ、一応」と返す。

「そうなんだ!私も1回生なんだー、よろしく!」

その女子はりんかと言った。そういえばよく名前を聞いた気がする。あれやこれやとひとしきり喋った後、友達らしき人達に「りんりーん!」と呼ばれ「じゃあね!」と去っていった。嵐のような子だな、と思った。

ハァ、と少し息をつき荷物をまとめる。ルリを迎えにいくためだ。授業が早く終わっていた分、このくらいの時間ならプラマイゼロだろうと思いながら。

ルリの苦しみが、オレの罪が、消える日は来るのだろうか。

 

2狂いだす日常

りんか(苗字忘れた)はそれからも度々話しかけてきた。本当に明るい人気者のようだった。授業の前後の数分間やたまのペアワークでニコニコと楽しそうによく喋る。ルリ以外でこれほど人と喋ることは久しぶりだった。彼女の振る舞い、一挙手一投足がなぜか目を引く。見てる方も思わず笑みがこぼれてしまうような、眩しい光を纏っていた。

授業が終わり、周りがざわめきだす。りんかとの会話を遮る呼び声は、今日はいつものそれではなかった。

「キリヤ」

それほど大きいわけでもないその声は他の雑音と一線を画して響き渡る。瞬間寒気が走った。

……あぁ、オレは何を。

「知り合い?」と首をかしげるりんかへの挨拶もそこそこに荷物をひっつかんでルリの元へ。向かう歩みは自然と早くなっていく。たかが数メートルが随分遠く感じた。

「行こ」

ルリはいつも通りのように見えた。だが明らかに何かが違う。刺すような威圧感に息が詰まりそうだ。

「ルリ、」

「さっきの、誰」

淡々とした喋り方は何も変わらないのに頭の芯が冷える。

「あれは――」

「見捨てないよね」

「え?」

「キリヤだけは私を見捨てないでいてくれるよね」

ルリの圧にオレはただ頷くことしかできなかった。

それからルリはカウンセリングの時間を変え、今まで休んでいた授業も出るようになった。履修は全て被っているから、授業ではいつもオレの隣に座った。まるで誰も近寄らせないと言うように。

そして件の授業の時間が訪れる。出席点がないためルリにとっては初めて出る授業だ。教室の隅、一番後ろの二人席に座った。

「あ、キリヤくんお疲れー」

弾む声がいつもの調子で降ってきてルリの周辺の空気が張り詰めた。しかしりんかはそんなこと気にも留めずにルリの一つ前に座る。

「初めまして!私りんかって言うんだー。その服すっごくかわいいね。黒い薔薇めちゃめちゃ似合ってる!お人形さんみたい!」

「……どうも」

ルリは普段より半トーン低い声で返した。それきり喋る気はないとばかりに外を向いた。

ありがたいことにすぐにチャイムが鳴り会話はそこで打ち切りとなった。オレは心底ホッとした。

異変はすぐ後だった。

ルリの呼吸が乱れ始め時折苦しそうな咳が混じる。ハンカチを貸すがみるみる顔から血の気が引いていった。

これ以上はまずい、そう判断して二人分の荷物を持って外へ促す。教室を出るときりんかが心配そうにこちらを見ていた。

「ルリ、大丈夫か。吸うんじゃなくて吐くことに集中して、」

「分かってる」

はっきりとした声に驚くと、ルリはまっすぐこちらを見ていた。

「……ルリ、過呼吸は」

「あの授業行かなくていい」

「……は?」

ルリは無表情だった。けれどどこか怒っていた。

「一つくらい落としても単位足りるでしょ」

「本気で言ってる?」

「……レポートだけ出せばいい」

「そういうことじゃない!」

オレは分からなかった。何故そんなことを言うのか。……どうしてそこまでオレにこだわるのか。明らかに度が過ぎている、ただ話しかけられただけじゃないか。

だけどルリの大きく見開かれた目と強張った表情を見ると強い感情がしぼんでいく。すぐさま後悔に苛まれ、「ごめん」の一言が口をついて出た。

重苦しい沈黙の後、ルリとオレは一人分の間隔を空けたまま黙って帰路についた。

 

次の週はもうルリは全ての授業には出ようとしなかった。いやむしろ以前より休みが若干多くなっている。でも留意すべきなのはそこじゃない。

ルリの様子に少し違和感があるのだ。顔が心なしか青白いように見えるのは気のせいではないと思う。その上目尻には濃いピンクや紫を差し口紅には血のようなパキリとした色味が光っている。以前より派手になった外見は元々の造形のよさもあるだろうが何故だか人間離れした―得体のしれないものが背後に見え隠れしているような―そんな印象を受ける。

過呼吸やPTSDのパニック発作は度々出るようになった。それそのものは数分安静にすれば収まるのだが、回数が多い。学内の保健センターに行く時も手を引きながらじっとこちらを見つめ付き添いを要求してくる。目元のラメの反射と対照的にその目の奥はどこまでも黒かった。

他にも気になる点は沢山ある。飲み物がジュースからコーヒー飲料ばかりになりバッグも新しい黒いものに変わった。少なかった露出もさらに減って、やたら右腕を気にするようになった。数えていたらキリがない。

一つ一つは些細なことだ。だけど確かに変わっている。でもルリの何がそうさせるのか、オレはどう声をかけていいのか分からない。だから、一番卑怯な手段を取った。すなわちオレは何も気付いていないフリをした。

「……くん、キリヤくーん」

ハッと気付くとりんかが心配そうにこちらを覗き込んでいた。

「大丈夫?顔色悪いよ」

「……ああ、大丈夫」

本当は寝不足で頭が痛い。まさにそれを見透かしたように「ちゃんと寝てる?無理しないようにね」とりんかは言った。「悩んでるなら話聞くよ」とも。

言わない方がいい。頭の中の自分が警鐘を鳴らす。けれど話してしまいたい、楽になりたいという思いが心を覆い尽くしていく。抗いがたい願望に、とうとうオレは少し時間をもらえるかと聞いた。「もちろん」と、似合わぬ神妙な面持ちで彼女は頷いた。

オレは話した。昔ルリの身に遭ったこともオレとルリの関係も、差支えのない範囲で話せる全てを。

りんかは黙って聞いていた。そしてぽつりと「大変だったね」と言った。たった一言、でも生身の、血の通ったあたたかな言葉だった。ずっと抱え続けていた重く黒いものが一気に流れ出して溶けていく感覚がして、灰色だった視界に光が差し込んだ。ふと周りを見渡すと、世界はオレが思うよりずっと、彩りに溢れていることに気付く。そして一番眩しいのは、「どうしたの」と首をかしげる目の前の――。

「……何でもない、ありがとう」

オレは目の前の状況は何も変わっていないのに、安心してしまった。

それからりんかとは同じ授業の後の空きコマなどでよく話すようになった。別に話したからといっていい案が浮かぶわけでもない。けれど、一人じゃないということがこんなにも心強い。

「…その発作ってどういう時に出るとかあるの?トラウマを思い出させるような何かがあるのかな」

「いや、本人も分からない時もあるらしい。それに……」

「それに?」

「前に一度、嘘をつかれたことがある。発作を起こした演技をされたらこっちからは見分けがつかないんだ」

「そっか……」

その時強い風が吹いて、「続きは中で」とどちらからともなく二人は席を立った。少し離れた所で何かが割れる音がしたが、木々が立てた大きな音にかき消されて二人の耳には届いていなかった。

 

3事件

それから一週間ほど経ったある日のこと。その日は何も変わり映えのない日だった。ただ小さな忘れ物をして前の教室に取りに戻ったらかなりギリギリの時間になってしまって、チャイムを聞きながら校舎を走っていた。その時、女子生徒の悲鳴のような声が耳に飛び込んできた。

甲高い、しかしどこか聞き覚えのある声な気がして、走る。

――嫌な予感がした。

校舎の隅、地下への5,6段ほどの階段の下の薄暗い場所に人影が見えた。

「そこで何してる!」

声に振り返った人物はほぼ影になっていて見えず、その向こうに座り込んだ黄色いスカートの女子が見えた。

「キリヤくん?」

「りんか⁉」

階段を降りようと身を乗り出すと同時に手前にいた人物が駆け上がって来て思わず足を止める。そして生まれた僅かな隙間に滑り込むようにしてその人物は去っていった。すれ違う瞬間、手に持った小型の刃物の鈍い光と黒いレースが視界に微かに映り込んで、オレは振り返ることすらできずにただ呆然と遠ざかっていく足音を聞いていた。

りんかに怪我はなかった。が、何故こんなことをしたのかは分からないという。いくらか会話をした後すぐあの場所に連れていかれ、ああなったと。一方ルリは一切連絡がつかなかった。

どうしてこうなってしまったんだろう。どこで間違えてしまったんだろう。オレはルリのために自分なりに頑張ってきたつもりだったのに、こんなことになるなら最初から全て間違いだったのか?……じゃあどうすればよかったんだよ‼

どう見てもルリは常軌を逸し始めている。それなのにオレには何も話そうとしない。それでいてオレに縋ろうとする。もう疲れた。……距離を置くべきなのかもしれない。

翌日、相変わらず返事は来ず、オレは一人で学校に向かった。迎えに行かなかったのはあの日以来初めてで、一応連絡は入れたがやはり届いているかは分からなかった。

本当はもっと早くにこうすべきだったんだろう。甘やかすだけが正しいとは限らないし、ルリには一人でも生きていける強さが必要だ。オレに頼らなくてもいいように、もっと広い世界に出ていけるように――。

 

その二日後、ルリから一枚の写真が届いた。切り立った崖と、海と、見覚えのある黒い靴。すぐに大学を飛び出して自転車を走らせた。どこをどう走ったのかはあまり記憶にない。ただ昔のルリとの思い出がやたらに頭をよぎって、泣きそうになった。笑顔で、無邪気で、眩しかったあの頃。

『キリヤくんはルリさんのことが好きなんだね』

不意にりんかに言われた言葉が浮かぶ。そんなんじゃない、と確か言った。好きとか嫌いとかそんな単純なものじゃないし綺麗なものでもないからと。

 

でも、そうだ。オレはずっと、ルリに笑って欲しかったんだ。

 

着いた時、写真の場所には揃えられた靴が一足。その下に手紙が置かれていた。

ボタボタと零れ落ちる涙が地面に染みを作り、声にならない叫びがいつまでも波間に虚しく響いていた。

 

 

4黒く、脆く

最近のキリヤは何か隠している。私が気付いていないとでも思っているのか。行き場のないこの感情は怒りなのか……。何か、心にどす黒いものが渦巻き始めていた。

髪をきつく編み上げ黒い花飾りを刺していく。派手?いや、むしろ少ない位。

黒みがかった紫のアイシャドウ、瑠璃色のアイラインに真紅の口紅。鏡に映る自分はもはや別人だ。

これは『武装』――つまり鎧だ。自分を守るための。

あの日から外に出るのが怖かった。だからせめて、素の自分と切り離して完璧な別人になる必要があった。

長い立ち作業でクラッとする。「カフェイン、エナドリ……朝からはきついかな」フラフラとした足取りで冷蔵庫を開けカフェインを摂取する。そういえば薬飲んでない、ああ使えるコップもうないんだっけ。いいや、コーヒーで。頭はまだガンガン痛む。でも行かなきゃいけない。キリヤに会いに。キリヤを盗られないために……。

「ハァ、ハァ…ッ…うぇっ、ゲホッゴホッゴホッ‼かはっ、フー…フー…ッ……」

苦しい、しんどい。喉に何かつっかえているようで激しく咳き込むも増すのは吐き気と不快感だけ。それを誤魔化すために腕をまくって思いっきり爪を立てた。

「ヴェっ、う…ぐっ、うぇっ……ううっ……」

うっすら滲んだ涙が雫になる前にルリは手早くハンカチを当てた。

 

あの日のことは実はあまり憶えていない。でも一番嫌なシーンの断片が脈絡なく脳裏に貼り付いてくる。何年経っても完全には消えてくれない。嫌だ、気持ちが悪い。またえずきそうになる身体をなんとか手で押さえて、ようやく外に出た。

ねえキリヤ。あの日、なんで置いて行ったの。ねえ、苦しいよ。……助けてよ、キリヤ。

 

保健センターから戻る途中、テラス席にキリヤと女子の姿を見つけた。少し離れた物陰から様子を伺うと、会話の内容までは聞き取れないものの随分と楽しそうな声が聞こえてきた。

衝動的に近くにあった石に思い切りスマホを投げつける。バキッと嫌な音がしてスマホが落ちた。衝撃でついた液晶は待ち受けのキリヤとの写真に大きなヒビを浮かび上がらせたが、それも一瞬のことですぐに黒く沈黙した。

「裏切り者」

 

せめて、側にいてくれるだけでよかった。それ以上は望まない。ずっとそう思ってきた。……でももうそれすら駄目なんだね。

本当は分かっていた。あの子に見せる表情も声色も私へのそれと違っていること。あの子に惹かれていること。分からない訳がない、それだけずっと見てきたんだから。どれだけ一緒にいたところでキリヤが私を選んでくれることはないと、薄々感じてはいても実際に目の当たりにすると耐えられなかった。私にはもう誰もいないのに、私はキリヤのせいで……!

キリヤが憎かった。私の全てで、なのに絶対に私のものにはならない。この埋まらない差ほど残酷なものはなかった。私を見ているはずのキリヤの目はいつもどこか遠くを見ているようで、それが余計に惨めで、つらい。

キリヤは優しいから自分のせいだと思っていることは知っている。キリヤが悪くないことももちろん分かっている。……でも私、一人はいやなの。私はあなたを罪で縛り付ける以外であなたの隣にいる術を知らない。苦しんでいる姿を見せることでしか気を引けない。そんなものに縋るしかないくらい、私には何も無い……。

 

――ねえキリヤ。こうしたら私を一生忘れないでいてくれるよね。

トン、と足の支えが消える。恐怖や諦めや解放感のない交ぜになった浮遊感の中、自分でも無意識の内に小さく言葉がこぼれた。

「ごめんね」

 

 

『キリヤへ。

今までありがとう。さよなら

 

                                                            川瀬ルリ』

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