「林、二刀流くん」
教師の口からその名前がこぼれた時、クラスメイト29人の58の眼がじろっと僕の方を向いた。これは僕の一生にかけられた呪いなんだと思う。クラスメイトの多くは近くの友人同士で目を見合わせ笑い、笑わなかった者は自分がその名前に笑みをこぼしそうになった笑みを恥じた様子だった。
「ほら、みんな」
という教師の一言に、全員の視線が申し訳なさそうな、残念な人間を見るようなものに変わる。慣れたことだ。僕は努めて平静を装って、教師に向かって軽くほほ笑んですら見せた。そのまま教師は出席を取っていき軽いガイダンスをした後、中学最初の授業はお開きになった。授業が終わるとすぐに、先ほど教師による出席の時に素っ頓狂な返事をしてみんなを笑わせていた男子がわっと寄ってきた。
「二刀流ってお前、大谷翔平かってな!!」
ビシ!と僕の胸に彼はツッコんだ。でも僕が返せた精いっぱいは、
「ははは……」
という乾いた笑いだけだった。クラスの雰囲気はなにか触れてはいけない神様に触れてしまったように凍り付き、その日から僕に喋りかけてくれる心優しい人は現れなかった。
2020年代、大谷翔平の大活躍の年に生まれた僕は流行に過敏ともいえるほどに反応する親父によって「二刀流」と名付けられ、この世界に産み落とされた。親父は良くも悪くもただ流行に敏感なだけだったので、別に僕を野球選手にしようなどとは考えていなかった。野球を強制されなかったので、僕がこの名前が「流行りもの」にあやかられていたと知ったのは小学校に入ってからだった。
「大谷好きなん?」
前歯の二本ない坊主頭の彼にそう話しかけられたとき、僕は首を傾げた記憶がある。オオタニ、が地名なのか人名なのかさえ定かではなかったし、自分のどの個所を見てそのオオタニを好きであると思われたのかも不思議だった。頭の上にはてなマークを浮かべる僕を見て、彼は続けて言った。
「二刀流なんねやったら、大谷翔平好きなんやろ」
今思えば強引な理屈である。子供が自分の好きな野球選手の名前を自分自身に付けることなど出来るわけがないのだ。野球のルールさえよく知らない、と彼に言えば、
「もったいないなぁ。羨ましい」
と、それがこの先100を超える初対面の人との会話テンプレートの誕生した瞬間だった。
中学校でも僕は、相変わらずのスロースタートだった。こんな名前をしていると、僕の内面を見て仲良くなってくれるためにはそこそこの時間を要する。初めは名前をイジって面白がってくれたムードメーカーも、僕の本質が名前からイメージされるようなものではないことに次第に気づき始めるのだ。そうして、周りに残るのはこの林二刀流を「二刀流くん」ではなく「林くん」と見てくれる人だけになっていく。でもそれが心地よかった。個性だけじゃなく、僕のどうでもいい部分を好きになってほしかった。
「頑張れ二刀流―!!」
グラウンドに野次が飛ぶ。バッターボックスに立つ僕。ピッチャーは野球部エースの高橋くんだ。体育の授業だからといって彼は一切手を抜かず、僕より前の打者は全員彼に三振を奪われている。局面は4回表ツーアウトノーラン、僕らのチームの最後の打席だった。僕は名前の由来を聞いた後、自然に野球を避けていた。野球好きだったらこの名前にも後付けで理由が出来るのもわかるが、あっけなくそれに従ってしまうのが嫌で、僕の野球無関心主義は世間に対する反骨精神であり、最後の自尊心だったのだ。
第一球、高橋が構え、腕をしならせボールを投げた。その速さにひるんで一瞬閉じた瞼の奥で、ボールがミットに収まる心地いい衝撃音が鳴った。
「ボール見てけー!!」
夢を見たこともある。当たり前のように、中学生の男子が授業中の白昼夢の中で見るような夢を。夢の中で僕はホームラン王だった。隣にはあの大谷選手がいて、
「憧れの選手なんです」
とヒーローインタビューで語ってドームを沸かせていた。白いユニフォームをシャンと着こなして、最後にはキメ台詞でピースしながらこう言うんだ。
「それでは、林二刀流でした」
スパァン!と右後ろから音が鳴る。二球目は見逃しのストライク。今まで野球に触れてこなかっただけで僕には、ひょっとしたら神がかった野球の才能が眠っているかもしれない。もし、もしこの高橋のボールが打ち取れたなら。
三球目。投げた。ボールはまっすぐストライクゾーンに突っ込んでくる。見える。あと合わせるべきはタイミングだけ。
手ごたえが先だった。音は後。鈍い金属音と共に、ボールは三塁側へ跳ねた。
「走れ!!!」
ベンチの声を背に、一塁目指して走り出す。目測であと二歩、二回だけ地面を踏めばたどり着ける世界があるかもしれない。
音など忘れていた僕の耳に飛び込んできたのはそんな音だった。パシ、というどこまでも軽い音。それは一塁のキャッチャーがボールを受け取った音だった。
「アウト!」
体育教師の嫌に響く声がグラウンドにむなしく響いた。
「バッティングセンターよってかない?」
美佳が僕にそう言ったのは、大学の講義がお互い三限で終わる火曜の夕方の事だった。ボウリング場に新しくできたバッティングセンターの話は、僕も友人から聞いていた。新しい施設だけあって、バッターボックスはプラスティック製の芝生の鼻を刺す匂いが漂っていた。
「ホームランで記念品贈呈だって!」
とはしゃぐ美佳に、出来るだけやってみるよと返答する。
500円を入れて、出てくる球は10球。速度は85キロだ。そうして出てくる球に自分の野球の下手具合を再確認させられる。酷すぎて笑えてくるレベルだ。へらへら笑いながら球数をこなしていき、最後一球になった。力も抜けて腰も入っていない、舐めたスイングで捉えた球は、そのまま吸い込まれるようにホームランパッドに激突した。
「ホームラン!」
外国っぽい発音の機械音声がそう叫んだ。美佳が嬉しそうに駆け寄ってくるなか、僕は茫然とするしかなかった。まだ手の中には、85キロの感触が残っていた。
ホームランの音声を聞いたのか、受付の方から店員が歩み寄ってきた。手には何枚かの紙が握られている。
「ホームランおめでとうございます!まず、お客様のお名前をうかがってもよろしいですか?」
美佳に小突かれ、我に返った。少しどもったあと、僕は罪の自白をするかのように震えながら言った。
「名前は、俺の名前は林二刀流です」
