バイクが走り去って、配達物だけが残った。
ここ数日、生きているのか死んでいるのか分からないような気持ちで過ごしていた。あまりに現実的すぎる音に、ようやく我に返る。
十で神童 十五で天才 二十過ぎればただの人。今まで散々言われてきたことで――そして俺は昨日、四十歳になった。
よろよろと立ち上がると、体の節々が悲鳴を上げ、その辺に置いていたカップラーメンの容器が軽い音を立ててひっくり返った。思わず眉を顰めるが、そもそも一人だったと思い出す。別に汚くてもいい。表情を変えたところで、誰かの声は返ってこない。
郵便受けを覗くと、一枚の封筒。薄いピンク色で、桜のシールが貼ってある。そういえばそんな季節だった。部屋にこもっているうちに、春が来たことも忘れていた。
「……まぁ、ありえないわな」
俺が期待していた、出版社からの封筒ではなかったらしい。思わずため息までついた。
槙野くんて、懲りないよね、と困ったような笑い声がどこかからする。
確かに、俺は懲りない性格だ。だからいくら独り言に返事をする相手がいないことが分かっていても、自分に”漫画を描く”才能がないことが分かっていても、こうしてやめられない。
「まさか四十になっても漫画描き続けてるなんて思わなかったよ」
「俺も思わなかった」
「まぁ、別にいいんじゃない? 人生百年時代だし、それまで続ければ」
「そうかなぁ」
あと六十年――大学を卒業してからは、十八年。その間に、友達がいなくなって、読み切りの落選通知を軽く百は見て、バイトを何回かクビになった。
それをあと、死ぬまでに三セット。気が遠くなりそうだ。
封筒を引っ掴んで、自分の部屋に入る。家賃の督促状は見なかったことにした。
閉め切ったカーテンの裾から、日光が洩れている。最近は床に寝っ転がって、ぼやんと揺れるそれを眺める毎日だった。全く気力が湧かなくて、生活が面倒になっていた。
「久しぶりに窓でも開けるか」
「いいね、それ。ついでにカーテンも開けたら? この部屋、薄暗くて篭ってるから」
「カーテンは……いいかな」
……しばらく太陽は見たくない。何となく。
けれどあの封筒――さっき届いた封筒を見て、少し外の空気を吸いたくなった。ちょうど今日は小春日和らしい。春特有の、なまるぬるくて気が抜けそうな空気が鼻をつく。
割引のシールが貼られたビニール袋が散乱している机の上を軽く払いのけた。ようやく手紙を置けそうだ。
「やっと手紙、見てくれたんだ? それ私が書いたんだよ」
「まさか届くとは思わなかったから」
封筒の中から、慎重に便箋を取り出す。
便箋も封筒と同じく、春らしい桜色のものだ。
「……字、大人っぽくなったね」
「そうかな、自分では気づかないけど」
手より少し大きいくらいの紙が何枚か。
そこで踊る文字は、俺が知っているものより随分しっかりしていた。
俺だけが変わらない、なんて中学生みたいなことは思わないけど。
でもみんな、普通に就職して、普通に結婚したり家庭を持って、味のある字がいつの間にか書けるようになっていて。
あの頃のまま、子どもみたいな字を書いているのは俺だけで、みんなちゃんと社会の輪として、生きていってる。
「落ち込まないでよ」
「……そうだな。手紙、読んでみる」
――要約すると、元気にしていますか、という挨拶の手紙だった。
どうやらこの手紙の送り主である鳴瀬と俺は高校の時、お互いの四十歳の誕生日に合わせて手紙を交換しようと約束したらしい。
「覚えてなかったんだね。私の誕生日には、来なかったもん」
「ごめん。完全に忘れてた」
高校時代なんて、もうだいぶ昔のことだ。ついでに、人生のピークでもあった。
思い出すのは、異様に柔らかい光で包まれた教室と、生徒の笑い声と、そして成瀬の笑顔。
嫌なこともあったはずなのに、記憶の中でどんどん美化されていってしまった。
でもそうか、四十になったら手紙を交換しようなんて、そんな夢みたいな約束もしてたのか。
あの頃、まだ制服に袖を通していた頃、十で神童、十五で天才、二十過ぎればただの人、だなんて言葉は嫌になるくらいに見ていたのに、自分は違うと信じて疑わなかった。
十歳の時、初めて絵画コンクールで自分の絵が選ばれた。伸び伸びしていていい絵ですね、と先生もたくさん褒めてくれた。自分には絵の才能があるんだ、と気づいた。
十五歳――高校一年生の時、初めてクラスメイトに漫画を描いていることがバレた。それが二回目の席替えで隣の席になった鳴瀬で、こぼれそうなくらいに目を見開いて、天才だよ! と言ってくれた。ちょっとずつ距離が縮まって、ちょっとずつ新作の漫画を見せるようになって、ちょっとずつ一緒にいる時間が増えた。
二十歳の時は、鳴瀬と同じ大学に通っていた。いつかは漫画家になれる。現実から目を背けて、漫画を描き続けた。その生活を、気づけば二十年近く続けている。
「大学生の時と同じアパートだから良いけどさ、引っ越してたらどうするつもりだったの?」
「あんまり考えてなかったな。まぁ、どうにかなるかなって」
「鳴瀬らしいな」
「そうかなぁ」
鳴瀬はいつの間にか結婚して、子どもが三人もいるらしい。一番上の子が最近十五歳になったのだと書いてあって、目眩がしそうになった。
俺が四十になるまでの間に、一人の子どもがそこまで成長したのか。
そして最後、手紙には、お仕事も落ち着いた頃だと思うので会いませんか、という一文が添えてあった。
「お仕事、かぁ……」
きっと昔の鳴瀬だったら、漫画について触れていただろう。
「まぁ、もう辞めどきかな」
これからどれだけ漫画を描いても、努力しても、報われる気がしない。
さっさと辞めてしまえば良かったのだ。もっと早くに見限って。せめて母親に勘当された時くらいには、辞めてしまえば良かった。
「ほんと、辞めてしまえば……」
少し手に力をこめれば、手紙の端がくしゃりと歪む。
いつからか、妄想で鳴瀬と話すようになっていた。
こう言えば、鳴瀬ならこう返してくれる。励ましてくれる。今話したらきっとこんな感じ……初恋の子との会話を四十になってまで引きずるなんて、我ながら気色悪すぎてドン引きする。
ただきっと、自分に都合がいいように、自問自答していただけなのに。
今までの十八年間は、漫画家になる夢を追いかける期間でもあったし、自分に何もないことを認められない時間でもあった。その間、鳴瀬と話し続けた。
「なぁ、そろそろ辞めどきかな」
ぽそっと呟いても、返事はない。イマジナリー鳴瀬にまで見放されたらしい。思わず笑みを零して、我に返って黙り込む。
『こんなに面白い漫画が描けるなんて、天才だね』
四十にまでなったら、もう誰かに認められたいとか、天才だって囃し立てられたいだとか、そんな気持ちはなくなった。
二十過ぎてただの人になってしまうなら、今の俺は何なんだろう。
漫画家になる未来がいつか来ると思い込んで、でもそのいつかは永遠に来なかった。
今もこうして、未来は無駄になって過去として過ぎ去ってしまう。
――でも。
「四十にもなったら、もう人ですらないかもな」
手紙を置くために作った小さなスペース。食べ散らかした机の上のゴミを集めて、ゴミ袋に入れて、どうにかA4の紙を置けるくらいにそのスペースを広げた。
コンテストでは落選続き。一度も賞を受賞したことがない。
それでもあの言葉を、あの表情を、あの日の鳴瀬を忘れられない。
季節は春。何かを始めるのには相応しい。
多分俺はもう一生鳴瀬と会うことはないし、手紙も返さない。
俺は馴染んだシャーペンを手に取った。そのまま、ペン先を走らせていく。
――そして、きっといつか。バイクは走り去って、配達物が残った。
