Re:birthday

 バイクが走り去って、郵便物だけが残った。

 トルクの音がいやに早く遠ざかるのは、コンクリートの群れが音を吸うからだろうか。人の寝入ったあとの街は、とたんに自分たちのものではなくなったような気配がする。なんとなく、ひとりであることを突きつけてくるようで苦手だ。……今日が私の誕生日でなければ、こんなことを考えることもなかったかもしれない。

 たったいま、配達員が私の部屋の郵便受けに何かを投函していったことはわかる。けれども、それが誰からのどんな書類だったのかを知る術はなかった。玄関扉と六畳間の間には郵便受けから溢れた未開封の郵便物がばらばらと散乱しており、新顔は届いたそばから埋没して行方を晦ませるからだ。この部屋は今や、誰の目にも触れ得ない情報たちの無縁仏と化していた。

 外に出なくなってから、もう何日になるだろうか。よく覚えていない。
 人に会わないでいるといろんなことが曖昧になって、自分が世の中から切り離されていくのがわかる。昨日何食べたっけ。ごはんって食べなきゃいけないんだっけ。今は夜だっけ朝だっけ。今日は何曜日だっけ。……いや、もう会社は行かなくていいんだった。
 嫌なことばかり覚えている。吐くものもあまりないので咳き込むだけで済んだのは幸いだった。

 こうなる前の私が何であったか、何かの拍子に思い出してしまえばまた薄い胃酸が乾涸びた管を焼くだろうから、強いて思い出すのもやめてしまった。わかるのは、いいかげん食べられるものがなくなってきたことだけだ。
 いつか落としたのだろう、ほとんど折れてしまっていたパスタとか。質感が変わるほど長く冷凍庫で眠っていたうどんとか。冷凍と解凍を繰り返してすこし黒ずんだ豚肉とか。梅干しとか。食パンとか。麦茶とか。思えばあの子はいつもそういう、日持ちのするものばかりトートバッグに詰め込んで私の部屋を訪れていた。肩紐がちぎれかけても、ずっと同じのを使っていたっけ。

 いつでもいなくなれるように。いなくなることが避けようのない未来であるかのように。彼女は私に接していたのかもしれない。
 今更、いなくなってようやく気付く程度には、私たちは杜撰に、つとめて適当に付き合ってきたのだろう。不定期に寄り合い、体を重ね、詮索せず、先のことなど考えず、相互になんの責任も帯びず。ふたりにとって、それが何より甘く心地好い、熟れ熟れた果実のような不文律だった。
 私たちが惹かれ合ったのはたぶん、そういう情けないところを言わずとも共有できたからだろう。お互い頼る家族なんかいないで、風が吹けば消えてしまいそうなその日暮らしをしていた。目的なんかなく、ただ死ぬのも苦しいから生きていただけ。先の見えない道すがらを諾々と進んでいると、時々すごく寂しくなって。それぞれ空いたその孔の部分に、詰め込める相手を欲しがっていた。自分なんかの内に入れても汚れないような、もともときれいでいられない誰かを。それが私にとってはあの子で、あの子にとっては私だったはずだ。

「ねー、タトゥー入れない?おそろいのやつ」
 何年か前、あの子の誕生日にそんなことを言ってきたのを覚えている。ばか、金ないでしょ、と相手にしなかったのだったか。実際、お金があっても断ったとは思う。ふたりともその辺りのセンスはなかったし。ただ、思い付きを話すだけ話して翌日には「何の話?」と忘れるのが常だったあの子にしては珍しく、おそろいに拘って食い下がっていた。結局ペアのマグで手を打ったものの、早々に片方だけ割れてしまったのだから不運というほかない。破片を捨てるか捨てないかで大喧嘩して、一週間は顔を見せなかったのを見るに、相当気に入っていたんだろう。あれはかわいかったな。

 そう、これまでにも数日会わないことくらいはあった。ただ、この期に及んではなぜだか、「ああ、もう来ないんだ」とわかってしまった。何か揉めたとか、すれ違ったとか、今度はそういうきっかけもなく、ただ、どちらからともなく終わりの気配をそれぞれに読み取っていたというだけで。

 

 泣いたら喉が渇いたので、常夜灯の下を手探りしてマグカップを探した。記憶が確かなら例の片割れを使ったはずだ。
 ローテーブルの上に手を這わせるうち、いくつか物が落ちる気配があったが、さして気にもならない。スマートフォンもパソコンも単にモードな置物と化して久しかった。やがて横倒しの円筒のつめたい温度を指先に感じてつかまえたが、軽く水音がしたので諦めた。たぶん一昨日のコーヒーだ。眠れる限りは眠っていたいのに、なんでそんなもの呷ったんだろうか。仕方がないので転がるようにして立ち上がり、流し台に向かう。蛇口にふやけたキャベツの切れ端がこびりついているのを適当に払って、そのまま水道水を両手に受ける。一口飲んで、そのまま顔を洗うと、起きてはじめて生きた心地がした。遅れて、じんじんと足の裏が痛むのに気付く。どうせ何か踏んづけたんだろう、足元を見ると歪んで平らになったフォークが落ちていた。
 泣いたって悪態をついたってひとりはひとりだ。深いためいきをついて、なんとなく部屋を見渡す。
 
 狭い。散らかっているのを加味したってそもそも物が少ないので、ゴミ屋敷然とした圧迫感よりは病室じみた寂寞感があった。つくづく、狭いだけ。
 わかっている。六畳のワンルームは独りで住むのだって本当は狭くて、あの子がいないほうが自然だと言いたげだ。

 ……いないほうが自然。いやに腑に落ちる言葉が、ぞくぞくと脈を打つ。
 さっき飲んだ水が、体表ににじみ出すのがわかった。血でも流れているみたいに背中がすうっと冷たくなっていく。

 ひどく恐ろしかった。もし、あの子がいなくても生きていけたら、生きられてしまったら。私はこの数日間きっと、その可能性を認めたくなくて引き籠っていたに過ぎないんじゃないか。
 だって、三食ずっと食べようとしてたし。辞めてからも、体は会社に行こうとしてたし。半身を失ったにしては正気でいるのが、ふたりの共依存を裏切るようで息苦しくてしょうがない。
 生きていくのが、これほど恐ろしかったことがあっただろうか。あの子を忘れた後も、味のしない人生が延々続いていく、だなんて。そんなものは悪夢でしかない。

 ……おかしな話だと思う。長く一緒にいて、私はあの子の名前すら聞いていなかった。煙に巻くのも続けば頑なと言っていい。「ねぇ」「なに」と呼び合うことはふたりだけでなければできないからと、そんな詭弁の心地よさに流されて、私はあの子の強情に踏み込めなかった。ほんとに馬鹿だ、また喧嘩してでも聞き出して、何回でも呼んでおけばよかったんだ。目覚めに、出掛ける前に、ふと思い立って、ベッドで、それから背中に爪を立てて何回でも。死ぬまで忘れようがないくらいに。

 

「ばか」

 本当にばかだ。こんな時だけ気遣いやがって。忘れて生きていけるような、まともな奴があんたなんか好きになるかよ。

「嘘じゃなかったって、ちゃんと、ここに居たって、言ってよ─────」

 ……せめて、写真の一枚でも残しておけばよかったんだ。ふたりとも自分の顔が嫌いだったから、少なくとも素面では絶対に撮らなかったと思うけど。

 

 顔を上げる頃には朝日が昇っていた。

 新しいスポンジをおろして、マグカップを洗ってお湯を沸かして、ボトルに残っていたなけなしのインスタントコーヒーを遣い切る。確か、これもあの子からもらったやつだ。

 なんでもいい、なんでもいい、面影を見つけたかった。ローテーブルをひっくり返して、デスクの引き出しを漁って、出てくるのは食べかすとか督促状だけ。冷蔵庫を開けても、あるものは全部食べてしまっていて。他に何か、と考えたところで、玄関扉の郵便受けが目についた。とうに重量に耐え切れず内側に開いたそれを中心に、封筒やチラシや何かがおびただしく重なっている。

 縋るような気持ちで、私は玄関に散らばった封筒を片端から開けて回った。違う、これも違う。これも。開ける事にやはり、という落胆が募る。
 やがて最後のひとつを手に取ると、感触が他よりも固い感じがした。厚紙とも違う、あまり馴染みのない代物だ。
 差出人の名はなく、宛名は印刷だった。消印はいくらか前の日付で、単に長く放置していたとも、日付指定で今日に届けられたとも考えられる。呼吸が浅く、早まるのを感じた。

 封をしていたテープを外紙ごと破いて開ける。と、折り返しで隠れていた部分に一筆書き込まれているのを見つけた。お世辞にも綺麗ではない、不細工な丸文字で、ただひとこと。

「元気で」

 

 手汗で紙がふやけるのがわかる。言葉も出ず、震える手で封筒の中身を検めた。
 中には、現像された写真が一枚だけ。手製とわかる不格好に歪んだケーキを挟んで、くたびれたワイシャツ姿の私と、見慣れた小さく白い顔が、くしゃくしゃの顔で笑っていた。

 

 

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