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To:[Judge]Dyham
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Title:赤き異物の風聞
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冥土の話題は奇っ怪な異物で持ちきりでございます。液体と呼ぶには煮凝りすぎたような、瓶詰めの赤い物質が、最近現世から召喚されたらしいのでありますよ。
近頃やってきたばかりの新入り幽霊たちはそれを「ケチャップ」などという調味料であると言って大いにはしゃいでおりますが、古来から此処で務めている私には、何のことやら(笑)
味覚も嗅覚も失い、食事が不要になった今となって、調味料ごときで騒げるなどというのはひどく滑稽なものです。
[Liaison Officer]Doctoren
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ああ、早く成仏がしたいものだ、本音を呟いて男は我に返った。連絡業務に私情は要らない。冥界の状況を伝えさえすればいいのだ。男は念じた。
男は冥府と関所を結ぶ連絡官である。関所は、死にたてほやほやの者を冥界か地獄に仕分ける現世側の機関である。つまり彼は、現世の情報を入手できる数少ない者のうちの一人なのだ。
「成仏したい」なる念が浮かんできてしまう日は、早々に筆を折るに限る。そう思って、男は[送信]ボタンをしめやかに押した。冥府もネットワークを使う時代である。
さて他の業務に打ち込もうかと伸びをした瞬間、ピコンと音がした。異様な速さの返信だ、ふだんは数時間ほど空けてくるくせに、と内言で愚痴りながらメールを開く。
『その異物を召喚士から取り上げ、直ちに関所に渡せ』
いつになくドライな文面が送られてきたものだ、男は思った。日頃、審判官とのやりとりはハッキリ言ってただの歓談であり、これほど切迫した一文に収まることはそうそうない。召喚された例の異物は、そんなにも危険な代物なのか。
召喚士とは、現世から重要な物品を召喚するエンターテイナーである。美術作品であったり、音楽であったり、遺骨であったり……それこそ冥界の誰かが成仏できてしまうような未練の品まで召喚してくれるという。その知名度は、冥界TVにて彼を取り上げた帯番組が放送されているほどだ。
今回の召喚が取り沙汰されたのは、「ケチャップ」などという調味料を召喚したチープさが大衆にウケたためである。食事の不要になった今となって、調味料が重要物品扱いされてしまう……という落差が、幽霊界隈のツボを絶妙に刺激してしまったのだ。召喚士自身もその異物に関するオカルティックな説明を言い添えることができず、ある種の「河童の川流れ」的失敗談として話題が広まりつつあるという。
冥界メールの画面を閉じて、冥界デスクに置いたままにしていた冥界フォンを手に取る。ひとたび画面を点けてしまうと、冥界Tubeを開いて冥界Shortsを見たくなってしまうが、それはやめて、使いの者に冥界LINEを送ることにした。
「召喚士から例の異物を押収するように……と」
大方の業務を片付け、冥界ソファでゆるりくつろいでいると、冥界インターホンが鳴り響いた。冥界ドアを開けると、巨大な瓶を抱えた使いの者が立っていた。
「すぐに渡してくれましたよ」
そう笑う彼は玄関に異物を置くと、そそくさと帰っていった。「これから冥界地下アイドルのメイちゃんが出演するんです!」彼は笑顔だった。
門扉を閉じ、異物を見つめた。妙に嫌な気配を感じ取ったが、好奇心には勝てなかった。さてさてどれほど危険あるいは陳腐なものなのか、私が見定めてやろうではないか……そんな軽い心持ちで、その瓶を持ち上げた。
刹那、触覚の無い男の手が、ずっしりとした重みを知覚した。その重さが、どうも、懐かしい。驚きよりも先に、ノスタルジーが来た。
男は再び異物を眺めた。見たことが、ある。細まったところの無いまっすぐな形状、黄味がかった素材のガラス、マホガニーで拵えられた巨大な蓋……その全てに見覚えがあった。それのみか────その中身にまで心覚えがあった。
「私の、血……」
───数千年前、男の住まう都市で疫病が蔓延した。その脅威は瞬く間に広がり、早急に手を打たねばならなかった。しかし、当時の治世者は、医学ではなく魔術による鎮静化を推し進めた。当然効力は無く、次々に人は死んでいった。
殊勝な医学者であった男は、魔法の非実在性を説き疫病を滅するべく、治療法や感染対策をまとめた医学書を仕上げたのであった。大衆にも普及するよう、現代で言う文庫本規格に収め、男の方策は万全であるように思われた。
しかし、無知の民衆はそれ以上に暴威的であった。魔術は想像以上に人々に取り憑いていた。男の書は軒並み焚書に遭い、彼は命まで追われることとなる。
逃亡の果て、男は、胸に抱えていた残りの一冊を瓶に入れ、自らの血液で満たした。それを蛇毒で凝固させ封印し、蓋をしたのち───著書とともに地中にて眠りについた。
今、目の前に、血液に秘された禁書が眠っている。
「───私の未練は、この医学書を普及させ、魔術を終わらせることだ!」
すかさず蓋に手を掛けた───しかしその所作と同時に、ある最悪の推論が男の脳裏をよぎった。
男の仇敵は、時の流れと科学の進歩を前に、既に破れていた。疫病も魔術も、現世にはもう存在しない。冥府で最も現世に精通する男には、痛いほど分かる事実だった。
今更、現世にこの書を放っても、誰にも見向きはされないだろう。既知の事実がつらつら書き並べられた古書でしかないからだ。あるいは考古学者には喜ばれるだろうが、それは男がこの書に望んだ大義ではない。未練は永遠に成されない。彼の中で再び滾りはじめた復讐心に、もはや行き場は無いのだ。
成仏は、永遠に、叶わない。これからずっと、冥府の連絡官としての生活だけが続くのだ。数千年前の野望を思い起こしてしまった今、それはどうしても耐え難い未来であるように思われた。過ぎてしまった時間の惨さが、数千年越しに男の魂魄を蝕んだ。
───魔術協会の嘲笑う声。刺客の手に握られたダガー。救いたかった民衆による求刑コール。特別の信頼を置いていた弟子ダイハムの裏切り。そして、孤独の逃避行───
『お師匠様もずっと生きていたいでしょう』
『私も永遠に貴方といたいのです』
『潔く、諦めてください』
───蓋から手を離し、息をついた。ありもしない汗がしきりに肌を伝っている感覚がした。それを拭い去るように忙しなく右手を振るい、普段通りに配達員を呼んだ。
「あれは、ただのケチャップだった」
視聴覚しか持たず、味も香りも確認するすべのない男には、永遠にそう思い込み続ける道だけは残されていた。
