人生は各々

 開け放された戸口をくぐると、いらっしゃい、と気のない声が少年を出迎える。ここのところ続いていた雨は上がったが、客は相変わらず1人だけだった。少年が適当な棚から適当な1冊を取り出し、ぱらぱらと読み始めていると、後ろからぺったぺったという足音が聞こえてきた。

「お前、よく来てるよな」

 わさわさとした長髪と無精ひげ、着心地だけは良さそうな服に、へたったサンダル。その古本屋の店主にしては少々趣の違う出で立ちはもちろん知っていたが、話しかけられたのは初めてだった。

「こんな流行りの本どころか掘り出し物すら無さそうな店に通うんだから、相当な本好きだろ」
「ここ、あんたの店でしょ」
「そうだよ?」
「そうとは思えない言い草でしたよ」
「いいんだよ、どうせ道楽でやってる店だ。あとちなみに、俺は店主じゃねえ」

 意外な事実に少年が目を丸くすると、店主ではないらしい男は含みのある笑みを浮かべて続けた。

「まあ言うなれば、店番だな」
「違うって言った割に大して変わらないような気が」
「うるせえな。意外と細かいこと言うな、お前」

それだけ言うと満足したのか、店主もとい店番はまた気の抜ける音を鳴らしながら、カウンターの中へと戻っていった。少年も棚に本を戻し、店を出ようとすると、外は今まさにといった様子でぽつりぽつりと雨が降り始めていた。

「うわぁ」
「なんだよ、そのこの世の終わりみたいな声は。まだ降りだしたところなんだから走って帰りゃいいだろ」
「俺、濡れるのがこの世で一番嫌いなんですよ」
「どこのお坊ちゃんだよ。今どき金持ちの子でもそんな奴いねえぞ」

 傘持ってきてないのに、とぼやく少年の背中に、とん、と何かが当たる。振り返ると、竹製の柄が差し出されていた。

「え、傘」
「使えよ。本当にこの世の終わりなんだったらこっちも貸すしかねえだろ」
「あ、ありがとうございます。なんかちょっと古びてますね」
「じゃあ要らねえか、って取り上げられる前に、さっさと帰れ」

 少年はそそくさと軒下に出て、古いが物はいい、黒色の傘と共に帰っていった。

 傘が濡れないように傘を差しながら、その日も少年は店にやって来た。

「梅雨は明けたんじゃなかったのかね」
「本当に。傘、ありがとうございました」
「おうよ。それで、今日も古本漁りか。よくやるな」

 一度話しただけでやけに気安くなった店番の態度よりも、少年には気になることがあった。

「この前、この店は道楽だって言ってましたけど。本は好きじゃないんですか」
「全く読まねえな。まあ、好きな奴もいるのはちゃんと知ってるよ、お前とかな」

 少しの優しさを含んだ言葉を受け流すように、少年は本棚を眺めながら言った。

「俺も別に好きな訳じゃないですよ、本」

 今日は店番のほうが目を丸くした。

「じゃあなんでわざわざ来てんだよ」
「まあ……道楽ですね」

 そして、にやりと笑う。いかにも教えませんよといったようなその態度に、店番は笑ったような怒ったような顔で、ふんと鼻を鳴らした。

 それから何度か後のこと。少年は店番がそれを手に取り、そしてカウンターの中に元通り置くところをたまたま目にした。それは特に変わったところもない普通の写真立てだったが、女の人の写真が入っているのが見えた。

「それ、誰ですか」

 少年がそう尋ねると、店番はお、と少し驚いた様子で顔を上げた。にやっと笑い、宝物を見せるように写真立てを差し向けた。

「この人はな、俺の嫁さんだよ。名前は沙和子。綺麗だろ」

 少年にとっては奥さんが居たことも、その子供じみた行動も意外だったが、その女の人は確かに、綺麗な人だった。

「そうなんですね。それで、沙和子さんは、どこにいるんですか?」

 少年はなぜだか写真から目がそらせなかった。店番は外のどこか遠くを見つめていた。

「死んだよ。病気でな。もう3年になるか」

 外の雨音が大きくなる。ああ、また傘を持って来ていない。

 その次の日、少年は同じように傘を返し、店番も同じように受け取った。少年はそのまま本棚には向かわず、カウンターの前に留まっていた。昨日の写真立ては変わらずそこにあって、沙和子がやわらかく微笑んでいる。

「こういうのって普通、2人の思い出の写真とかじゃないんですか」
「確かに大体はそうだよな」

 少年には確信があった。店番の様子が変わらないのを確かめて、踏み込んだ。

「あの、これって」
「遺影の写真だよ。お前、無駄に察しがいいな」

 店番が平然と笑うので、少年は驚きも安堵もした。

「なんでこの写真なんですか。つらく、なりそうなのに」
「楽しい思い出よりも、一番悲しい時の思い出を飾ったほうが忘れないからな」

 その返答は少年にとっての答えだった。辺りの空気が、少しだけ軽くなる。

「あなたが選ばれたのは、間違いじゃなかったんですね」

 店番は己の目を疑った。目の前の少年の頭上に、白く光る輪っかが見える。

「おいおい、これは……」
「見ての通り、天使です。亡くなった人に会わせるために来ました」

 なんのてらいもなくそう言われてしまえば、店番も眼前の光景をそのまま信じるほかない。

「亡くなった人に、会わせる」
「さすがに生き還らせるのは無理ですが、たとえば夢枕でも、……もしお望みなら、あなたを沙和子さんのところへお連れすることも、できてしまいます」

 淡々と話す声も、そこで少しだけ震えた。天使の仕事は万能だ。

「対価は?まさかタダって訳じゃねえだろう」
「うーん……じゃあ、そのサンダルでいいです」
「そんな適当でいいのかよ」
「何でもいいんですよ、選ばれた時点でその人には権利が保証されていますから。儀式のようなものです。そのサンダル、妙にうるさいんですよね」
「お前、うるさいと思ってたのか」

 死が載せられたカウンターを挟んで、ただの1組のサンダルの話をしている。先に切り上げたのは少年だった。

「さて、どうしますか?」
「いらねえな」
「えっ?」

 店番は隙間なく迷いなく、拒否の言葉を口にした。

「俺はどれも選ばない。権利が保証されてるなら、それを使う使わないも自由だろ?」
「そう、そうですね……でもどうして。あなたは今も、沙和子さんのことをずっと想っているのに」

 選ばないことはできても、そんな選択肢は初めからない。少年の口調からはその思いがにじみ出ていた。店番はその様子をまっすぐに受け止めて、そのうえでさらに言葉を続けた。

「確かに俺は今でも沙和子のことが大好きだ。世界一愛してる。でも、沙和子は3年前に死んで、俺は今も生きてる。それは俺にとって、絶対のルールなんだよ。だから俺は最後まで生きる。俺の決められた時間を、最後までちゃんと歩いて、そうして終わりに着いたら、そこで沙和子が待ってくれてる」

 それらの言葉に、翳りはなかった。その頃にはもう、少年の焦りも消え去っていた。

「なあ、天使さんよ。これをなんて言うか知ってるか?」
「……何ですか」
「愛だよ」

 にやりと笑って、そう言う。少年は笑ったような怒ったような顔で、ふんっと鼻を鳴らした。

「じゃあ俺は帰りますね」

 少年はカウンターを離れ、戸口の方へ足を向ける。

「おうよ。今日は傘は要らねえか?」
「何言ってるんですか。雨なんか降ってませんよ」

 ああそうか、と返す間もなく、白い翼が一瞬視界の端を掠めて、後は青空が広がっているだけだった。

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