ダンスを踊るのに、一番良いのはコーヒーだ。まぁ、これを提唱した博士は遠く何世紀の向こうに死んではいるが。アルコールなんかの生っちょろい毒を飲むくらいならば、コーヒーを飲んで死ね、という考えが人口に膾炙するのも、そう長い話ではなかった。遠い昔のその日を境にクラブで出る飲み物と言えば「コーヒー」になり、粋がった真っ黒の背高帽子を被って、ひげを髪の毛以上に大切にする連中がより市民権を得ることになってしまった。もちろん、そんな奴らが人々の顰蹙を買わないわけはないのであって。一時は社会現象にまでなった「口ひげ狩り」も最近は鳴りを潜め、最近では口ひげを隠す偽の顎の売買も最近は大きな税収になっているらしい。前は本格派を謳っていたいたコーヒーも、あまりの需要の高さに流されて、今は専ら缶コーヒーを開けて出しただけなんだとか。とにかくここで重要なのは、時代の風潮は左右すれども変わらなかったのは、地球の重力にしがみつくステップを踏むためにダンスフロアに蔓延する、コーヒーの苦臭いにおいだけだった、ということである。
「冗談か何かなのか?」
スキャットは叫んだ!! まるで初恋の人を故郷から遠く離れたこのNYの地下鉄の向かいのホームで見つけたかのように!!
噛みタバコは紳士階級からその下の労働者階級にまで、広く普及した楽しみだった。例えば高層ビルの一室でも、寂れたバーのゴミ捨て場でも、男たちはくちゃくちゃと同じ音を立てる。そして最後に、超高級カーペットや、どぶの中に唾やタンと混ぜて吐き捨てるのである。吐き捨てられたものは黒っぽく、下を見て歩かなければいつ靴の裏についてしまうか分かったものではない。とはいえ、そのゴミを剥ぎ取る雇用というのも存在するので、貧民は自分が嚙みタバコのゴミで稼ぐために嚙みタバコをやっているという節さえある。彼らは生き延びることが出来て、タバコ屋はもうかる。国だけが損をする、不思議なやり口だった。くちゃくちゃ。例え場所がここであっても、その音は変わらない。くちゃくちゃ、くちゃくちゃ。見つめ合う二人の男は相手の顔をどこを見るともなく見つめ合いながら、くちゃくちゃやっていた。
ダンスフロアに黄色い歓声が上がった。ステージ奥から白いスモークが吹きあがったと思えば、そこから現れたのがあのルビスコ・ウィッテマンその人だったからである。ルビスコと言えば、「右乳首で2億ドル稼いだ女」という二つ名はもはや古い物であり、今の二つ名は「小指を大統領に食わせた女」だというのをご存じだろうか。とにかく、大変人気な女であって、コーヒーの匂いでムラムラ来ていた男たちがそれに黄色く野太い声を上げるのも、何ら不思議なことではない。ここでは、コーヒーの匂いは発情につながる、ということだけを覚えておいて頂きたい。
相手は依然として首を下に向けたままだった。靴の裏のゴミでも拭っているのか。それともただ眠気のピークにぶつかってしまっているのか。しかし、今は商談の真っ最中であり、相手方に眠っている隙など本来あるはずがないのだ。生き馬の目を抜くこの街で、相手を舐めたビジネスマンが一体どうなるか。俺はそれを嫌になるほど見てきた。こいつはもう死んだも同然だ。ここから先、誰からの信頼も失っていくだろう。机の向かいに座ったシルクハットの老人を見ながら、俺はそんなことを考えた。そして、もう一度だけ聞いた。
「冗談か何かなのか?」
スキャットはコーヒーを一口飲んだ。跳ねる心臓の音を、どうにか沈静化させるために。仕事の時はいつもこうだ。緊張のあまり、叫び声をあげてしまう。チラチラと周りを見渡してみても、周りはみんなステージの女にくぎ付けの様子で、スキャットのほうを見ているものは誰もいない。よかった。スキャットは心底安心する。さて、あとはもう一つの問題を解決すれば、今日はぐっすり家の布団で寝ることが出来るだろう。
くちゃくちゃ。二人の間に会話はない。ただ、待っている。男の一人の名前はバンズという。普段は銀行の7番窓口に立って、やってくる客に預金の追加を提案している。職場でジェリーという受付係の女性と出会って結婚、二人の子供が生まれ、現在は郊外の古い一軒家で家族水入らずの生活をしている。趣味は特になく、無駄な出費もない、職場からの評価は、ミスも少なくないが、ひたむきな姿勢は高評価に値する。いわゆる普通の男であった。彼がこんなクラブに来るようになったのは、さかのぼること3か月と少し、目の前に座る、ミスターホキンズと出会ったのがきっかけだった。くちゃくちゃ。味のしなくなったたばこをただ口の中で転がしながら、二人は向き合いながら無言で待っていた。
ルビスコが手を振り、生の脇が見えるたびに、おおという声がフロアを占める。口を開けて何かしゃべろうとすれば、上唇と下唇をつなげる唾液の橋のきらめきに、誰もが生唾を飲み込んだ。彼女が合図をし、両側に備え付けられている二つの巨大なウーハースピーカーから重低音のベースが流れ始める。ダンスタイムだった。彼らは男どおし、女どおしなんか気にも留めず、お互いに指を絡ませ腰を抱いて踊り出した。みんなムラムラしていたのだ。仕方ない。とにかく、ここで重要なのは、踊るときには帽子を取ろうということだった。
相手はこちらの声に反応一つ返さないで、もうずっと長いこと俯いている。いい加減俺だって腹が立つってもんだ。時間を計ってみたが、あれから少なくとも25分は経っている。懐中時計をくるくるやる遊びにも飽きてしまった。ステージのほうに、少しは有名な遊女が来ているらしいが、生憎女に困っているわけではない。コーヒーを置いて、無礼ながら席を立ち、白髪の紳士の横へ行く。そして気づく。彼は眠っているのでも、気絶しているのでもないということに。彼の着ているシャツの下部分に、コーヒーの何倍もどす黒い液体が垂れていたのである。
スキャットは練習通り、視線を床に落として、滑るようにフローリングを進んでいく。足取りは、まるで初デートの待ち合わせに急ぐ少女のようだった。伏し目がちにしていた目を上げて、目的の人物を探す。ダンスに来るようなタイプではないと踏んで、テーブル席を舐めるように見ていく。右から見ていって、左75度あたりの二人で掛けているテーブル。あれの右側の男がおそらく目的の彼であろう。それにしても妙なものだ。折角のクラブなのに男二人、それもお互いじっと見つめ合っているだけとは。
2人組のもう一人の方の名前は、オリバーと言った。ただ、オリバーというのも数多くある偽名の内の一つであり、本名を知るのは彼と、彼の両親と、年の離れた小さな妹だけである。彼はいわゆる捜査官、という奴であり、バンズを連れてここに来たのも捜査の一巻だった。オリバーについての情報は少ない。印象に残りにくい顔、常連だったはずなのに、声を聴いてもぱっと顔が思い浮かばない、そんな顔をした男だ。そんな彼がバンズという男を知ったのは5か月前、バンズが軍の実験施設を隠すため、カムフラージュとして建てられた一軒家を購入した時だった。彼は銀行の客としてバンズを訪ね、いくらか喋り、夕食を共にした。彼に与えられた仕事は二つあった。一つは、出来る限りバンズを守ること。そしてもう一つが、万に一つがあれば彼を殺すことであった。しかし、誤算があったのは、オリバーの心が、何も知らない一般市民を簡単に殺せるほど出来上がっていなかったことだった。彼は、バンズに喋ってしまったのだった。バンズは驚いたが、それに順応し、スパイごっこを楽しんでいた。くちゃくちゃ。オリバーは待った。今日彼らを襲うというスキャット、とやらを。
フロアは最高潮に沸き立っていた。人が飛び跳ね、床板は大いに揺れた。いつのまにかルビスコは消えていた。おそらく別の現場に行ったのだろうが、誰一人としてそれに気づくものはいない。全員が全員、コーヒーを浴びるように飲んで、踊って、踊って、踊りまくった。誰が誰かもわからないままで手をつなぎ、キスをしていた。とにかく、ここで重要なのは、ここは重要ではないということだった。
俺は逃げた。逃げるさ。そりゃあ逃げる。熱狂するフロアの人間をかき分ける。床に散らばったハットに足を滑らせそうになりながらも、両の腕で70キロぐらいの肉塊の粒を押しのけ押しのけ進んでいく。向こうに、ちらっと出口が見えるのを心の支えに、ぐんぐんと人を割り進んでいく。
スキャットがバンズの後をさりげなく通り、通り過ぎたかと思った瞬間に奇声を上げながら彼の背中に睡眠毒の入った針を刺すのと同時に、オリバーが噛みタバコを床に吐き捨て、彼に銃を向けた。
「スキャットだな?」
ドアを開け、クラブの外へ出る。コーヒーの絡みつく匂いも、優しい夜風に撫でられ、空気中に溶けていく。彼は、そこで大きく深呼吸をした。ガソリンの匂いと、ゲロと小便の匂いを肺一杯に吸い込む。煙たい世界から目がさえていくのを感じる。少しして、彼は家路についた。空には、コーヒー色の夜空がもうすぐ来る朝を知らせるように広がっていた。
