震える体、その危険信号を無視して女は歩き続ける。吹雪で視界は悪い。柔らかく誰にも汚されていない雪は脚を疲労させるだけだ。これはそんな、出口の無い永遠のような吹雪の中の話。
「いってきまーす!」
ハツラツとした声と共に少し萎びたランドセルが夏の陽光の下で跳ねる。その男児はは佐藤太郎といった。ここは山間の村、ぽつぽつと古い建築を保つ日本家屋が立っていて、それ以外はほとんどの場所が田んぼが占めていた。唯一の小学校は全学年合わせて10人で、太郎と同じ小学四年生が最も多い3人だ。
「……」
「まあいいや」
送り出す言葉が無いことが日常だった。唯一の家族である母親はほとんどの平日は太郎がまだ起きていない時間に帰宅し、太郎が学校から帰ってくる頃には家を出ているからだ。律儀に太郎が「行ってきます」の声を張り上げるのは、ある種の無自覚な反抗だった。挫けることを望んでいるかのような運命への反抗心だった。
あぜ道を抜けて太郎は学校へ歩を進める。前に犬の散歩をしている近所のおばさんが見えた。
「あら太郎くん、相変わらずみすぼらしい格好ね」
挨拶も無く、おばさんはいつものように太郎に嫌味を言う。
村の者はみな佐藤家を蔑視していた。それは太郎の母の職柄もあるが、なによりも父への偏見のせいだった。
太郎の父は元暴力団関係者だったのだ。村に越してきた頃にはとっくに足を洗っていたにも関わらず、その特殊な前歴が故に体に残った証と村の排他的な空気が根も葉もない噂を創造されるに至ったのだ。
前時代的価値観と閉鎖空間という環境では一度貼られたレッテルは簡単に剥がれることは無く、太郎はいつも嫌がらせを受けていた。
太郎はまだ悪意に正当性が無いことを知らなかった。
その夕、太郎は山を歩いていた。夏の夕は長く、日が傾いてはいたものの、まだ山の中は橙色に染っているだけだった。
家の裏手にある山は放課後、暇になった太郎の遊び場となっていた。人間の声がしない自然の中を無心で歩く。学校に居る時のように心を殺すのではなく、ただ何も考えない。これが太郎にとって堪らなく癒しとなっていた。
いつものように葉の音と蝉の声だけの世界、そのはずがその日は少し違った。道から外れた下の方から誰か人間の声が聞こえたのだ。太郎は誰かが遭難でもしているのだろうか、とその声に返事をすることにした。
「誰か居るの?」
「こっち、こっちです! お願いします! 助けてください! 動けないんです!」
ずっと助けを求めていたのだろうか、少し掠れた女の声が斜面の下、茂みの中から太郎に届いた。姿は見えないが、その悲痛な声に太郎は道義心に駆られた。
「分かった!!ちょっと待ってて!!」
太郎は道を外れ、ふかふかの土の斜面を慎重に下っていく。足を滑らせると一気に下まで真っ逆さまの場所だ。腰を低く重心をブレないようにし、手は地面の近くに近付けておく。一気に体重移動させるのではなく、足場の安定を確かめながら一歩一歩確実に進む。誰に習ったわけではないが、何度も山を歩く中で太郎が自然と身に付けた技術だった。
五分ほどかけて降りた太郎は、ようやく声の主を正面にした。それは美しい女だった。裸足で土に座り込んでいる女だった。女の長いまつ毛が映えるキリッとした目付きに高い鼻と薄い唇、真っ白な肌や細い首、そのどれをとっても太郎が今まで見てきた中でずば抜けて端正で、太郎は思わず言葉を失いそうになった。言葉を失うに至らなかったのは、そんな女の顔立ちよりも目立つ異様さからだ。真っ白な長髪と血の気の無い顔色、死装束のような白い着物、到底この世の者とは思いがたかった。
「……雪女?」
脳が記憶から照らし出した単語、それが口をついて出てしまったのは彼の幼さゆえだった。
「まだ子供か……」
女はというと、雪女という言葉には意を介さず、それよりも太郎が幼い子供だったことに落胆していた。
「帰れ、年端もいかない子を魅入らせはしない」
冷たい声で女は太郎に吐き捨てる。
「帰れ、って……怪我はどうするの?」
そう問い返す太郎に女は子供ながらの純粋さ、思考の浅さに少し呆れた。
この少年は私が雪女だと考えた上で、なぜこのような場所で怪我をしたと嘘をついて助けを求めていたのかを理解してないのだ。
その太郎の悪意の欠如に女は毒気が抜かれた。
「怪我は嘘だ」
「ウソ?」
「ああ、分かったなら帰れ。親が心配しているだろう」
女はすっと立ち上がってみせ、それだけ告げて太郎に背を向けて薮をかき分けてその場を離れた。
太郎は女が怪我をしていないことに胸を撫で下ろし、周りとは対称的に真っ白な女の背中を見送った。ふと、たまたま太郎は彼女が座り込んでいた地面に目がいった。その場所にだけ雪が積もっていた。
この日、女は生まれて初めて男を誑かすための言葉では無く、自分が考えて思った言葉をそのまま口にしたのだった。
翌日、女と太郎は再び昨日と同じ場所で顔を合わせていた。
「なぜ居る?」
女は低い声で問う。
女は不思議だった。目の前の少年が自分のことを恐怖せずに、再び会いに来たことを。また自分が昨日と同じ場所を狩場に選ぶほど、少年のことを信用していたことを。
「暇だったし……お姉さんと喋りたかったからかな」
太郎は恥ずかしそうに頬を掻く。
「私と喋らなくとも、友人が居るだろう? それに、私と居ることが知れると、こんな小さな村では面倒なことになるぞ」
「友だちなんて居ないよ。 それにもう遅いや」
「遅い……?」
表情の微細な翳りを女は怪訝に思った。
「なんか、みんな僕のことを嫌っているんだ。学校でもどこでも僕は居ない方が良いんだってさ」
覚えがあった。いつか村の男が話していたのを聞いたことがあった。だが、女はその記憶を振り払った。
「そうか。私にはなんの関係もないことだな」
女は立ち上がり、太郎に背を向けた。
「もう行くの?」
寂しげな声。
「……」
無視、しようとした。
だが、女には出来なかった。
「……もう明日はここに来ない。少年、さよならだ。二度と会うことは無いだろう」
せめてもの優しさとして、女は太郎に明日から探さぬようにだけ忠告をした。そのまま太郎の返事を聞きたくないかのように、女は急ぎ足でその場を後にした。
一人残された太郎、家に帰っても孤独だった彼はまだ家に帰りたくなかった。太郎は女の残した季節外れの雪に寝転がった。冷たい雪が後頭部に溶ける。その冷たさが夏の暑さには心地よかった。
またその翌日。
女はいつもの山とは違う、村を挟んで反対の山で獲物を待ち構えていた。誰かが通るのを暗闇の中でじっと待つ。
女は自身が何者なのか理解していなかった。
雪女は時間が経つほど重くなる赤子を人間に預けるものだと女はどこかの村の書物で読んだことがあった。ならば女は雪女では無い。女は男を魅入らせ、油断したところを凍らせ、喰らうことで命を繋ぎ止めている。決して、何者かに赤子を預けたことなど無かった。
女は自身が何者なのか理解していなかった。
女は自身がどのように産まれ育ち、どのように言葉を知り、どのように生きる術を知ったのかを知らなかった。ゆえに女は自身の名前を知らなかった。気が付けば山の中で倒れており、どうしようも無いほどに人間を喰らいたい衝動に駆られた。本能のままに女は人間を喰らった。
女は自信が何者なのか理解していなかった。
だから少年が女に雪女と言ったことによって、女は自身が何者なのかを決定された。
しゃわしゃわ、と五月蝿い蝉に辟易しながら女が思考をしていると、山道を遠くから駆ける足音が聞こえてきた。
「助けてください!怪我したんです!!」
出来るだけ掠れた声で女は叫んだ。足音は頭上で止まり、ゆっくりとこちらに近付いてくる。女は狙い通りに近付く人間を焦らずに待つ。
急ぎながらも、女の方に着実に向かう足音。
あと一歩、その草をかき分けて私の姿を見たお前はもう生きて帰れない。そうほくそ笑む女は久しぶりに人間を忘れて、化け物になっていた。
まず手が、次に足が、そして体が草むらから出てくる。
「やっと見つかった!こんなとこに居たんだ!」
渾身の笑顔でそう叫んだのは太郎だった。
「は?」
女の時間が一瞬止まった、蝉の声すらも忘れるぐらいに。
女は、ほとんど無意識に太郎の胸ぐらを強く掴み、にじみ寄った。女の中でずっと鍵をしていた感情は、太郎を見る度に少しづつ開いていく。その感情を無理やり抑え込むように女は怒りを顕にした。女の今までとは明らかに違う様子に太郎は少し後ずさりをする。
「なんなんだ……?一体なんなんだよお前は……」
震える声を絞り出しながら、女は膝から崩れ落ちて太郎の胸にもたれかかった。太郎の胸ぐらを掴む女の手からは冷気が溢れ出し、少し服が凍る。だが、女のその尋常では無い、しかし脆い今にも壊れそうな繊細さを含む情動に太郎は恐怖では無く慈しみを覚え、黙って女の言葉を受け止めた。
「どうして私に構う?どうして黙ってる?」
「どうか、どうか私を化け物で居させてくれ…頼むよ」
女は自分が人間に戻ってしまうのがたまらなく怖かったのだ。人を殺して喰らった自分が、子供に絆されて人間の心を取り戻した時に罪に向き合うのが怖かったのだ。
また女は、目の前の少年が自身の行いを知ってしまうのが怖かったのだ。この悪意を知らない少年が、染まってしまうのが怖かったのだ。
太郎は何も言わなかった。ただ、どれだけ体が冷たく凍りつこうが受け止めることだけをした。
その時、女はあることに気付いた。
「その血……」
太郎の脚からは血が流れていたのだ。
「怪我…してるのか?」
女がよく観察すると、太郎は全身泥だらけで腕や脚には沢山の傷が出来ている。
「どうして……そこまでして」
「お姉さんしか、僕の目を見てくれる人は居ないから」
太郎は、微笑みながら泥をぱんぱんとはたき落とす。怪我を誤魔化すようにするその仕草と、太郎のその言葉に女は一瞬、呆気に取られた。が、すぐに太郎の言葉の中に秘められた寂寥に気付く。
「少年、二度とそんな風になるまで私を探すな」
女は太郎の目を真っ直ぐ見つめる。うってかわって強い口調になった女に太郎は少し気圧されながら、コクコクと頷いた。
「私は、前までの、君の家の裏山に居るから。いつでも来てくれていいから、私のために傷つくようなことをやめてくれ」
女は真剣に頼み込んだ。太郎の必死さが、太郎に必要とされていることが、女に恐怖を捨て置き、彼のためにあるべきだと思わせた。それが気まぐれなのか、母性なのか、それとも別の何かなのかは誰にも分からない。
太郎は女がいつでも来てくれていい、と言ってくれたことに笑顔を咲かせた。
「えへへ、いいの?明日も会えるの?」
「会えるさ、ただ少年、朝はやめてくれよ。眠いんだ」
眠い、それは嘘だった。人を喰らうところを見せたくないが為の、優しい嘘だった。
「少年、じゃないよ。太郎、佐藤太郎だよ。お姉さんは?」
「私は……」
女は困った。名乗る名など無かったのだ。だから、女はこう言った。
「名前なんて知らない方がこの関係は特別になりそうだろ?」
それから、太郎と女は毎日のように語り合った。どんな話でも良かった。ある日は蝉の話をして、ある日は海の話をした。他愛のない話をすることが女にとっても、太郎にとっても救いになっていたのだ。
一方で、女は相変わらず人を殺していた。2日に1回、女は村や山を超えた先の街に降りて、人を殺して喰う。生きる為にはそれ程多くの量の人間を喰らう必要は無い、実際に女は1週間程度ならば人を喰らわずとも生きていけた。
太郎にはそのことを悟らせないように努めた。女はそれを隠すことが優しさだと知っていたからだ。
いつの間にか季節は冬になった。
ある日、太郎が来なかった日があった。
女がいつものように、太郎が来るであろう時間にいつもの場所で待っていても太郎は何時までも来ることは無かった。女は、そういう日もあるだろう、と心の奥に嘘をついて気にしていないフリをした。
しかし、その翌日も太郎は来なかった。胸騒ぎを覚えた。そこで女は、こっそりとその日の夜、誰もが寝静まっている時間に山を降りて、太郎の家に訪れた。
窓から家の中を見ると、苦しそうにおでこに皺を寄せている太郎と、仕切りの隣で派手な服を脱ぎ散らかしてその上で寝ている母が居た。
太郎は流行病に罹っていたのだ。しかし、それを看病する母は殆ど家に居ない。重たい身体を引きずって自分でお粥を作ったのだろうか、洗われていない食器がちゃぶ台に放置されている。
熱ゆえに悪夢を見ているのか、太郎は寝返りを何度も打ちながらうなされていた。そんな彼を見ていられなかった女はせめてこのぐらいは、とすっかり温くなっているであろう氷枕を窓越しに凍らせてやり、その日は帰った。
翌日も、その翌日も、それから毎日、女は夜に太郎の家へ訪れて太郎の氷枕を冷やしてやった。
人間では無いお前にはそれぐらいのことしか許されていない、窓ガラスの隔たりがそう言っているように女には思えた。
寝ている太郎の顔色がかなり良くなった一週間後のその日は、雪が積もっていた。
早朝、女が山に帰って腰を下ろしていると、村に繋がる山道を誰かが歩いていることに気づいた。女はいつものように、怪我人のフリをすることにした。驚くほど簡単に引っかかった男は30代後半の男で、女はあっさりとその男の喉を貫いた。
真っ赤な血が雪を染めるその上で、女の食事は始まった。
女はまず男の二の腕にかぶりつく。男の腕には刺青が入っていたので、なんとなく女は刺青を避けて歯を立てた。肉を食いちぎると、また血がそこら中に飛び散る。女は気にせず咀嚼する。
次に、二の腕の丸見えになった骨を女は握りしめ拳を捻り、折る。女は、その血まみれの骨を男の腕の付け根に振り下ろす、何度も何度も何度も何度も。そうして、へこんだ肩に溜まった、ぐちゃぐちゃになった血肉に女は口を直接つけて、啜る。
女は這いつくばって、足の指を噛みちぎってボリボリ喰らう。手の指を全てちぎって、その9本の指を右手に持ち、先の肩に溜まっている血に付けて喰らう。
人間が動物を食べるよりも、もっとずっと淡々と女は男の死体をぞんざいに扱いながら喰らう。たまに骨を折り、目を抉り、耳を引きちぎり、腹を開いて骨で掬い、どんどん男の身体は減っていく。
しばらくして、残ったのは脳みそと目が無くなった頭部だけになった。女は男の頭部を雪の下に埋めた。
その日の夕方、ようやく回復した太郎はいつもの場所で女と相対していた。
「ホントはね、今日は来ないつもりだったんだ」
太郎は申し訳なさそうに言う。
「お父さんが久しぶりに会いに来てくれるって、お母さんが言ってたから」
「君のお父上か、優しい人なんだろうな」
女の言葉に太郎は顔をほころばせた。
「うん。ちょっと見た目は怖いけど、本当に困ってる人には優しくて。僕が君を助けよう!って思ったのもお父さんだったらそうするかなぁって思ったからなんだ!」
太郎は言葉を続ける。
「ぼうりょくだん?ってやつだったんだって、だから僕のお父さんには小指が無いし、刺青が入ってるんだよ」
小指が無い、刺青、太郎の父くらいの年齢、今日の朝。
女の喉がひゅうっ、と鳴った。それに太郎は目ざとく気付く。
「お姉さん、僕のお父さん食べた?」
太郎は本当は見ていた、実の父が喰われるところを。その生々しい光景に太郎は感動した、だって本当は父なんて殺したいほど憎かったから。しかし、それは胸に秘めておく。
女を罪悪感に縛り付けるために、女がどこにも行かないように。
