扉の前、先生の一声を待つ。緊張で握る拳の中で汗が滲むのが分かる。何事も第一印象だと誰かが言っていた、アレは確か……ばあちゃんだったか? 思い出そうと眉をひそめた、その刹那、廊下の奥の不自然に開いていた窓から風が勢いよく吹き込む。その突風に乗って意識は過去に飛ばされた。
ピッピッピッピッ。
心電図モニターが波形を一定のリズムで描く音だけが病室を支配する。もう長くない、医者がそう言った。当時の俺には言葉の意味は分からなかったが、今ならば分かる。医者の言葉を受け止めきれずに、嗚咽を漏らしながらうずくまる母の思いも、なんと慰めて良いかの正解もないままに、ただ父が母の背中を優しくさする気持ちも。
少し時間が経過して、親戚一同が病室に集まりきった深夜、ただでさえ暗い病室がもっと暗い頃。
「優しく……人に優しく生きるんやよ」
ベッドの脇で、ただ周りの緊張感だけを察して黙っている幼少期の俺に、ばあちゃんは口以外何一つ動かすことなく小さく言った。かすれた声でも、何故かそれだけはハッキリと聞き取れた。
そうだ、思い出した。人に優しく、それがばあちゃんの口癖だった。与えた優しさは必ず自分に返ってくる。それをばあちゃんは伝えてくれたんだ。
ガタガタと風邪で揺れる窓の音が過去への短い旅の終わりを知らせる。
人に優しく、いちばん大事な部分だけが心に残って少し緊張の糸がほぐれた。ならば何事も第一印象だと言ったのは誰だったんだという問題は残っているが、まぁいい、どうせどこかのつまらないインフルエンサーだろう。
それにしても、よっぽど連絡事項が多いのか、なかなか先生に呼ばれない。考えてきた挨拶を思い出しながら、俺はひたすらに待つ。まぁ準備は長ければ長いほどいい。確かこれは俺が小学生の頃、近所に住んでいた かつ兄の言葉だったハズだ。過去の記憶が切り取られた写真が次々と脳裏に浮かぶのと合わせるように、教室の中でチョークの音が響く。カッカッカッカッ……心地よいリズムに俺はいつの間にか、家の近所の河川敷に立っていた。
夕日が川面に反射する時刻、河川敷を俺とかつ兄は縦に並んで歩いていた。二人で平べったい石を探して歩いて、見つけたらそれで水切りをする。当時二人でよくやっていたことだ。
「かつ兄、ホントに東京に行っちゃうのか?」
「ああ、行く。もうお前にも暫くは会えないな」
寂しいか? と川に石を投げながら、からかうようにかつ兄は続ける。普段の俺だったら「寂しくねぇし」って言い返してただろう。が、この時はそうはいかなかった。
「うん……」
「えっ? いや、そうか……そうだよな」
中学生三年生のかつ兄は当時の俺にとっては、大人よりよっぽど大人びて見えて、会えなくなることが何よりも辛かった。
「じゃあ! お前にとっておきの言葉を教えてやろう!」
目を擦り俯いてしまった俺を励ますために、かつ兄は声をわざとらしく張り上げる。
「いいか?」
俺は無言で縦に頷く。
「うちはサスケって、文字で書くとサスケがギャルみたいになる」
ドボッ、かつ兄の投げた大きめの石が川で鈍い音を立てた。
そうだ、そうだった。うちはサスケ、って文字で書くとサスケがギャルみたいになるんだ。どうして今までこんな大事なことを忘れていたんだろうか。ごめんかつ兄、ありがとうかつ兄。東京で大学生活を楽しんでいるであろうかつ兄に心の中で謝罪と感謝を同時に行う。(これを感謝罪と名付けたのはまた別のお話)
と、ようやく先生が転校生が来たことを発表したようだ。うぉー! と、可愛いい女子を期待する男子の野太い声には申し訳ないが、ひとつ自己紹介と洒落こむとしよう。
教室の扉に手をかける。その瞬間、腕が石になったかのように硬直した。横にスライドさせるだけ、たったそれだけのことが出来なくて自分でも驚愕する。
怖いんだ。でもその恐怖は、俺を守るために存在するハズだ。『恐怖を克服することは素晴らしいが、恐怖と共に歩むことはそれ以上に素晴らしい。勝利の為に命を懸けろ、敗北は死と同義だと思え』これは誰の言葉だったか、いや忘れるはずがない。父の言葉、そして毎食前の我が家の言葉だ。
扉を開けようとして唾を飲み込む。ごくり、と静かな廊下で響き渡るその音が、俺を今朝、家を出る前へと誘拐した。
昨晩は緊張でほぼ寝れなくて、欠伸をしながら俺はダイニングに降りた。父はこの上なく優しい人で、そんな俺を気遣ってか、敢えて今朝もいつも通りに接してくれた。
「起きたか、おはよう」
「おはよう」
今朝は母が居なかった。俺が転校という人生初の一大イベントに臨むというのに、普通に友人同士で旅行に行ったのだ。だから今朝の朝食は父が不器用ながらも用意してくれていた。
「父さんが作ったの? 凄いね」
「へへへ……だろ? ほら、食べてみてくれ」
父に勧められるがまま、席に着いて手を合わせる。
「「恐怖を克服することは素晴らしいが、恐怖と共に歩むことはそれ以上に素晴らしい。勝利の為に命を懸けろ! 敗北は死と同義だと思え!」」
いつも通りに二人で唱え終われば、もう一度手を合わせて小声で「いただきます」と食事を始める。恐怖とは克服するものじゃないんだ。恐怖とは共に歩むもの。俺はついにその意味を真に理解した、初めてそう思えた。
もう大丈夫だ。扉を開けよう。この日、俺は生まれ変わったんだ。ありがとう、ばあちゃん、かつ兄、父さん。俺、行くよ。
── ガラッ
「YO! YOYOYOYO!! 転校生は ボ ク ち ん でーす♡ あれ、テンション低くないーー??? 自己紹介とイッちゃうヨーーン!!!」
「「「「……………………」」」」
勢いよく飛び込んだ俺に対して、一斉に注がれる樺太の厳冬を想起させるほど冷たい目。
デビュー失敗だーーーー!!!!!!!!
ばった先生の次回作にご期待ください!
