廊下から見えた延焼の様子は並大抵ではなかった。もう既に展示物は悉くお陀仏だろう。「ああ……」狼狽する青年の心情に反して火はひどく玲瓏だった。
ワックス・ネッタドールは若き蝋人形師である。父であるロウ・ネッタドールの跡を継いだばかりの駆け出しではあるが、その姓はただならぬ意味を持っている。「ネッタドール一族」。その時々の権力者の背後に必ず鎮座してきた、名家である。
ネッタドール一族はこれまでさまざまな人物を彫像にしてきた。大衆から慕われた王族に、国中を震撼させたシリアルキラー。世紀の大発明で名を馳せた科学者や、臈長けた盲聾の女性作家を象ったりもした。もっとも、偉人でも悪人でもない名の知れぬ天竺浪人の客を相手にしたことも数多ある。だが、作り上げるからには万遺漏なきを期し、緻密かつ堅牢で、要望通りの仕上がりを確約している。その労苦こそネッタドール一族の伝統なのだ。
その伝統の結晶達を、眼前に燃え盛る炎は遠慮なく愚弄していた。ワックスの目には涙が滲んでいた。融けてしまったのは、先祖の労作や時代の象徴だけではない。亡き父が老骨に鞭打って手がけてくれた、ワックスにとっての思い出の品もあったのだ。
展示室の消火を済ませ、すぐさま駆け寄った。題は『回顧』。やはり原形はもう留めていなかったが、幸か不幸か頭部だけは綺麗に残っていた。12歳の頃のワックスの笑顔が、忠実に再現されていた。
───それは学校で嫌なことがあり泣いて帰ってきた雨の日だった。父はそんなワックスを見て、『そんな顔をしては良くない』『お前はずっと、笑顔になさい』と言い、ワックスの笑顔を型にしてワックスの蝋人形を作ってくれたのだ。それ以来ワックスは、題の通り、この彫像が作られた時のことを回顧することで心の平穏を取り戻すことができた。
不意に朦朧として屈み込んだ。すると、視界の底に何やら白いものが映った。ワックスは蝋に濡れたソレを手に取ると、どうやら父から子に向けられた手紙であることを認めることができた。ガラス繊維でできた高価な紙のようで、あの火の中を持ち堪えたようだ───今の今まで『回顧』の中に眠っていたのか。
ワックスは封を切り、中身を読み進めた。
『お前がこの文章を読んでいるということは、お前は、ネッタドールの呪縛から解放されたいと願い、館に火を放ったというわけだ』
書き出しは意想外だった。ワックスの何もかもを見透かしているというような書きぶりだが───すみません。俺が自棄になって行った放火ではなく、原因不明の不審火なんです。ワックスは念じた。
『うら悲しくもあるが、それもまた一興。ネッタドールは、今日で終わりだ!』
すみません。今日でネッタドールを終わらせるつもりはなかったんです。ワックスは念じた。
『飲み込みが早すぎるだろう、って? それはそうさ。というのも、私自身もネッタドールに対してお前と同じ葛藤を抱いたことがあるからな』
すみません。あなたと同じ葛藤を抱いたことは、まったく無かったんです。これからもネッタドールを全然続けていくつもりでした。ワックスは念じた。
『その頃の私を肯定してくれたようで、今はとっても、晴れ晴れとした気持ちだよ』
晴れ晴れとした気持ちだと綴るその字体はミミズ文字のように揺れていて、明らかな哀しみが禁籠されていた。
『……とはいえ、これからきっと、不安だよな。ということで、お前に最高の餞を用意しておいたよ』
『ワックスの新たな門出に幸あれ』
『真心を込めて、ロウ』
『P.S. 金庫の番号はXXXXだ!』
読み切り、ワックスは大いに申し訳ない気持ちでいっぱいになった。父が向けた自分ではない自分が、この手紙を読んでしまった。一筋の涙が頬を伝った。
だが蝋人形展が全焼した今、暫くの目算が断たれてしまったのも確かであった。ワックスは『餞』を頼りにするため金庫のもとへと向かった。
金庫は亡き父の書斎にどっしりと黙座していた。幼い頃から印象的だと目していたため、探す手間は掛からなかった。
早速手紙の番号を使って金庫の錠を解くと、中にはなんと厖大な量の金が匿されていた。「えっ!?」思わずワックスは黄色い声を上げた。またも添えられていた紙には『先祖代々受け継いできた遺産だ。全部お前に遺贈しよう!』と書かれている。えっ、こんなのあったんですか!? ワックスは念じた。これ貰っていいんですか!? ワックスは念じた。これだけあれば俺一生遊べるじゃん!! ワックスは念じた。
あ、生計立てる為に蝋人形師やらなくてもいいんだ。ワックスは念じた。そういえば蝋人形を作るのにあんまり楽しいとかないんだよな。ワックスは念じた。作品見て凄いとは思うけど、別に生業にはしたくないというか。ワックスは念じた。
「やった〜〜!! これで俺もFIREだぜ!!」
あらぬ方向で火のついたワックスは、朗々たる気持ちで駆け出した。
