新たな家具を手に入れたその帰り道、京子は前を歩いていた男が何かを落としたのを見た。京子は自分がどうしようもない人間であることを自覚していた。だがしかし、目の前で何かを落とした人がいれば、それを拾ってあげることぐらいはする善人であろうという気概もあった。
「あの、これ落としましたよ」
京子は前のスーツ姿の男が落とした何かを拾いながらそう声をかける。暗い夜道だったので、それの落下音から何か金属類であること以外は落下物に対して、京子は何の推測も立てられなかった。
「えっ」
だから、包丁を拾った時に思わず声を上げてしまった。手の中をぬるりと撫ぜるような触感も気持ちが悪かった。
「ああ……すみません、拾わせてしまって。大丈夫ですか。手、汚れてしまったでしょう」
男はゆっくりと余裕に振り返ったあと、目を糸のようにしながら片手を頭の後ろにやって謝罪する。そこでようやく京子は男が自分よりもふたまわりも大きいことに気付いた。
「い……や、えっ、あの」
「こんなに血が付いてしまって、ハンカチをお貸ししましょう」
内ポッケから男は真っ白なハンカチを取り出して京子の手に無理やり握らせる。その時には既に包丁は京子の手を離れて地に落ちていたが、その落下音に気付かないほど京子の頭は白く塗りつぶされていた。だが、包丁と血という想定外の方角にある事実をほうって、京子はただハンカチを渡す中で自分の手を包み込むようにした男の手に、「しわしわだなあ」と他人事にも思っていた。身長も高く、腰も曲がっていないために一見若々しく感じられるが、よくよく観察してみれば白い髪の毛やしわしわの手から男が老いていることを知った。
「あの、私、何も、何も見てません」
受け取った好意は無下には出来ない、というか機嫌を損ねたくなかった京子はひとまずハンカチで手を拭いながらも、自分という存在が無視してもいい羽虫だと主張した。だが、男はそれに対して本当に心当たりがないかのように首を傾げたあと、「ああ」と呟いた。
「血で汚れた包丁のことですか」
男がわざわざ自分が見なかったと言い張った物を口に出してしまったせいで、京子の見て見ぬふりは失敗に終わる。気付けば京子の足は少しずつ後ろへ後ろへと逃げていて、それに京子はアスファルトの破片がジリジリと鳴ってようやく気付く。
「はは、逃げるのは良くない。滾ってしまう」
男は乾いた笑いと共に革靴をカツカツと鳴らしながら、少し後ずさった分だけ律儀に距離を元に戻す。
「いやっ、来ないでっ」
自分が殺される、男は殺人に喜びを感じるどうしようもない人間だと京子は察し、次の瞬間には背を向けて走り出していた。たまたまこの日、京子は逃げやすいスニーカーを履いていたため、転回も早い。それに男は笑い声を上げた。
「鬼ごっこですか、良いで──」
カツンっ。
逃げる京子のハンドバッグから何かが落ちる。それを男が認識したと同時にぴたっと拘束されたかのように男の革靴は地面を離れなくなった。
「──え、……拳銃?」
そう、今日このハンドバッグから落ちたのは拳銃だった。それに気を取られていた男が次に顔を上げれば、目の前にもう一丁の銃をこちらに向ける京子が立っていた。
「見ちゃいましたか」
◇◇◇
謙一は自分が優れた人間であると自覚していた。数ヶ月ぶりに味わえた生きた肉を裂く感覚を、数時間経った今でも手に残しながら帰路についていた。いつも謙一は凶器に包丁を使う。最も入手が簡単であり、十分な殺傷能力があり、そのうえ死と近い場所に持ち手がある。自分の延長線上で人が死んでいく感覚を味わうためには完璧なリーチだった。
謙一が暗い夜道を歩きながら、相手の生命線である血が自分の手ひとつで失われていく高揚を抱き抱えていれば、突然、後ろから女が声を掛けてきた。
「あの、これ落としましたよ」
何を落としたか、それを確認するために振り返ろうとしたその時、
「えっ」
女が狼狽えたような声をあげる。目をやれば街頭に煌めくそれは真っ赤な血のついた包丁だった。謙一は焦る。決して見られては行けないものを見られてしまった。動揺で思うように声が出せない中で、謙一はどうにか平静を繕いながら返事をする。
「ああ……すみません、拾わせてしまって。大丈夫ですか。手、汚れてしまったでしょう」
謙一は誰かを殺す時、いつも相手には敬語で喋るようにしていた。自分が他の動物のように快楽をもって殺す輩とは違うと思い込みたかったがための習慣だったが、いつしか敬語を話すことがそのまま人を殺す精神状態へと導くトリガーになっていたことに謙一は気付いていなかった。
話し始めた途端に自身の思考が冬の海のように冷めていくことだけを謙一は自覚する。ポッケからハンカチを取り出しながら、どうこの女を殺すかだけを考えた。
「い……や、えっ、あの」
「こんなに血が付いてしまって、ハンカチをお貸ししましょう」
女の見た目は良くない。幸薄そうな一重と分厚い唇、良いとは言えない造形だ。何も入らなそうな小さなハンドバッグはパンパンに膨らんでいて、それもこの女の頭の悪さを物語っているんだと謙一は内心笑った。
「あの、私、何も、何も見てません」
怯えたような声で女はそう言った。何も見ていないとはどういうことだろうか、謙一は初め本当に心当たりがなかった。包丁はどう考えたって見ていたし、では何を見ていないと言っているのか、どこまでも共感力の薄い謙一が答えに辿り着くには少々時間が必要だった。
「あぁ、血で汚れた包丁のことですか」
ようやくたどり着いた答えに笑う。わざわざ自分から逃げる為だけにそんなバレバレの嘘をついている女が謙一にはどうしようもなく可愛らしく感じた。さっきまで不細工だと評していた面も殺す対象と思えば愛せる。自分の言葉を聞いて慌てて逃げる女に謙一は興奮した。
「鬼ごっこですか、良いで──」
カツンっ。
逃げる女のハンドバッグから何かが落ちる。謙一はそれを見た瞬間、まず自分の目を疑った。
「──え、……拳銃?」
それが本物か否かを判別する眼を謙一は持ち合わせていない。ならば偽物、オモチャだろうと思った。現代日本で銃を持っている人間なんているはずが無い。動揺こそしたものの、再び追いかけようと謙一が顔を上げた時だった。目の前で暗い穴がこちらを見ている。
それがもう一丁の銃の銃口だと気付いた時にはもう遅かった。
「見ちゃいましたか」
◇◇◇
「うん、ハプニングがね。だからもう一脚おねがい」
落下した薬莢を拾いながら京子は電話をする。新たに増えた死体を家に飾ってもらわなければならなかった。
