人は花だとか、獣だとか、鏡だとか、考える葦だとか言うらしい。
私に言わせれば人間なんて石っころだ。風に吹かれ、水に流され、時に蹴飛ばされては転がって、転がるうちに角がとれて。そうして円みを帯びていくことを成長だとか円熟だとかいって褒めそやす。要は大人びるほど小さくなる。
そんな、くそみたいにつまんないのが私たちの本質だ──そう言いたげに、先輩は笑っていた。
あの春から三年が経っていた。ギターひとつ抱えて東京行きの夜行バスに飛び乗った先輩の、無造作で美しい襟足が夜風になびいたのを、なんとなく覚えている。
あれから会うこともなければ、連絡も取っていない。Twitterもしばらくすると動かなくなっていた。よく垢増やしたり消したり飽きたり、今度もそれだろうと思っていたから驚きはしなかったけど、寂しくなかったと言ったら嘘だ。
そんな先輩から着信があった。バイト中で、不在着信になっていたのがある意味幸いだったかもしれない。じかに話したらきっとテンパってしまったから。留守電に残った声は前に聞いたのより少しかすれていて、それでもやっぱりかっこよかった。
「そっち帰ることにした。今度会おうよ」
○
先輩は今度も夜行バスに乗ってきた。地元から足を延ばして新大阪のターミナルまで迎えに行くと、相変わらず少ない荷物でタラップを降りてくるのですぐにわかった。
その背に埃まみれのギターケースがないことが意外だったが、先に送ってあるのだろうと得心した。行きもそうだったが、いくらなんでも持ち物がこれだけのわけはないのだ。
「ちょっと痩せました?」
「そ?ダイエット成功~」
記憶の中の、18歳だった先輩は細かった。手も足も細いけど、気崩した制服やTシャツから覗く首とか手首とか顎のラインが特にきゅっとしていて、触れたら折れてしまいそうな怖さがあって、その怖さを当時のわたしはどこか神聖さみたいに扱っていた。
だからわたしは、少しどきりとしたのだ。再会したその人が、記憶よりさらに細く見えたから。ちゃんとご飯、食べていただろうか──そんなわけがないのも、なんとなくわかる。
つくづく、無頓着なひとだったから。自分にも、他人にも。
彼女が執着するのはただ、才能だけだった。
「そっちは太ったね」
「ノータイムで地雷踏み抜くとこは変わってないですね」
「あたし嘘つけないからねー」
「知ってます。人に気なんか遣うだけ無駄、そういうとこから丸くなってく、でしょ?」
これは先輩の数ある口癖のひとつだった。
彼女は才能を石に喩えた。ダイヤの原石なんて眩しくてチャチなものじゃなくて、もっと原始的で、もっと本能的なもの。打ち欠いて、削り出して、研ぎ澄まして、獲物の喉笛を裂くためのひとかけら。
選ばれた才能が磨き抜いた言葉は、絵筆は、音楽は、人を傷つけるに足るものだ。そして傷つけることを許されたものだ、と。だから私たちは己という石を加工するとき、誰よりも苛烈でなければならない。
誰もが心に刃の原石を生まれ持っているのに、それをみすみす丸めて誰かの手に握らせているのだから笑い話だ、と。
水切りにちょうどいい薄べったい石を弄びながら、先輩はそんなことをいつも宣った。高校から少し離れた河口がわたしと先輩のたまり場で、自転車を側に打っ棄って日が暮れるまで駄弁るのが常だった。先輩は煙草を吸わせてくれなかった。
わたしは先輩の吐く薄い紫煙と、とげとげしいのに耳触りのいい言葉の数々を、朝露を呑む虫か何かのように残さず取り込もうとしていたのだった。
「そそ。覚えてたんだ、飽きないねぇ」
「わたしの先輩は先輩だけですから」
「意味わかんねー!ばかじゃねーの」
「バカでいいですよ、別に。みんな先輩よりバカですから」
「まだ言ってくれるか、それを」
不意に遠い目をする先輩をよそに、三年越しの再開の熱は冷めそうになかった。当人をほとんど差し置いて舞い上がっていたのだ。
その日は結局わたしが先輩にラーメンを奢って、そのあと先輩が買ってきた缶チューハイで乾杯して、そのまま新大阪で別れた。ネカフェにでも泊まる気らしく、わたしの家に来ないかとも声をかけたが、それは断られた。
無理強いをすることでもないと、わたしは素直に引き下がって帰った。
先輩のことだ、こんな地元に収まる器じゃないことはわかっている。バイトしてお金貯めるとか、本読み漁るとか曲作るとか歌書くとか、そうやって準備を終えたらまた東京に舞い戻っていくのだ。その合間合間にでもまた会えるだろう、今度は連れてってもらえないかな、などとほろ酔い心地に家路についた。
そのことを、わたしはすぐに後悔することになった。
○
次に会ったのは真っ白い病室だった。
薄緑の病衣をまとって白昼のもとにいると、いまの先輩は芯から不健康なのだとわかる。もともと病的に白い肌に派手な色のリップを差すのが好きだったけど、その差し色がないから余計にそう思うのかもしれない。
いつも黒の長袖で隠れていた手首は傷痕だらけのようで、包帯が巻き付けられていた。見るのは初めてだったがそれ自体は意外ではない。驚いたのは、そこから鮮血が滲んでいたことだ。昨日は派手にやったらしい。
「手首切るのって、なんでやるんですか、それ」
「さー?なんでだろ、なんか落ち着くんだよね」
「生きてる実感がどうってやつですか。わかんないんですよそれ皆言うけど」
「私が思うのはあれかなー、形から入りたいみたいな。ほら、理想の姿をイメージするの」
「……尚更わかんないですけど。大丈夫なんですか」
思わずため息が出た。昨日もそうだったけど、少し離れているうちに、多少はこの人を相対化するようになったらしい。
先輩の言うことがわからなくても不安じゃない。わかろうと変に空回ることもなくなった。それでも、荒唐無稽ななかに何かしらの真実味を探してしまうところは変わっていないらしい。
不毛で、そのうえ不躾だともわかっていて、それでも理由を訊いてしまうあたり、特に。
「果物、なに駄目でしたっけ」
「酸っぱいのは好きだよ。甘いのは嫌い」
「だいたいの果物って甘酸っぱいんですけど、あ、バナナ抜いときます?」
「ありがたくもらっとくよ。バナナ以外。あ、リンゴ食べたい、こっち投げて」
「ベッドで丸かじりする気です?剥きますよ」
「悪いね」
先輩はわたしが差し入れた小説を読みながら、さして悪いとも思っていないような調子で言う。その様子を見ていると、本当にこれが彼女にとって落ち着く状態であるかに思えた。今だって時々看護師さんが包帯を替えに来ていて、まず痛くないはずがないのだ。やがて剥き終わったリンゴを器に盛り、楊枝を差してベッド脇のローテーブルに置くと、先輩はひょいと口に運んだ。そして、撫でられている捨て猫みたいな微妙な顔をして、もしゃもしゃとそれを頬張った。
「おいひい」
「そういう顔ですか」
「どういう顔に見える?」
「あ、わたし顔色とか見るの好きじゃないんで。ただ、変な顔だなーって」
「いい教育してんねー!」
「いい先輩持ちましたからねー」
先輩が噴き出して笑ったので、わたしも思わず笑ってしまった。
「なに読んでるんですか」
「ほら、きみが持ってきたやつ」
「あー。面白いですか、それ?」
「んー……」
「妹が読めって勧めてくるんですけど、わたし全然で」
「おもしろいよ」
「えっ」
「……どした、変な声出して」
「いや、……なんでも」
「そう」
驚いた。なんてものじゃないかもしれない。
記憶にある限り、先輩は自分以外の人間が創ったものを「面白かった」「良かった」とは絶対に言わなかった。たとえどれだけ心に深く刺さっていても、「自分のほうが鋭く優れたものを創れる」と譲らない人だったから。
だから私は先輩の返事を待たずに貸した本をこき下ろした。否定の言葉が返ってくると疑わなかったからだ。
「先輩、円くなりましたね」
「……私も、そう思うよ。体はむしろ骨ばったけどね」
「ですね。無駄だと思いますけど、一応言っときますね。ごはん、ちゃんと食べてください」
「それがね、病院食、わりと楽しみなんだ」
「そうですか」
「そそ。……幻滅したでしょ」
「……どうなんでしょう。びっくりは、してますけど」
「そっか」
「です」
「リンゴ、ごちそうさま」
「はい。……また。元気になったら、水切り、しましょう」
「いいね。……また」
病室には見舞いの籠から立ち上る甘い香りが満ちていて、先輩はやはり顔をしかめていたので、去り際に窓を開けるか訊いてみた。
先輩はゆっくり首を振って、いいよ、そのままで、と言った。病院を出ると外の風はやはり冷たかったが、先輩が窓を閉めたままにしたのは、それだけではなかったのだと思った。
帰路、高校の近くにあったあの河口に寄った。
なんとなく水切りをしてみたが、先輩のようにうまくはいかなくて、なんとなく手を見る。水切り石の柔く手に馴染む感じが残っている。
平たく円い、投げやすい形の石を見つけるのはそういえばわたしの方が上手かった。すぐに次に投げる石を見出して、ふと思い至る。
風に運ばれ、水に流され、時に蹴飛ばされて、円く角を落とし流れついた石は、それでも原型を保っているのだ。手に馴染むこの形でここにあるから、こうしてわたしの手に届く。
その途方もない旅路の中で、砂粒や星粒の数ほどの石は砕け散ってしまったに違いないのだ。己の身さえも打ち欠いて、鋭く鋭く足掻いたものならば、きっと尚更。
才能というのは、もしかしたら毒なのかもしれない。体ではなく、心を蝕み、破滅に導く致死性の毒。ただ自身のみを殺す、自家中毒の毒だ。
あの人が、砕け散らずにいてくれたことが、今の自分には心から嬉しかった。不思議なほど、それ以外に思うことはないのだった。
