感染

ミカはリビングの端から端を行ったり来たりしていた。家の中はコックと呼ばれるクッキングマシーンの音と、ミカの素足が硬い床とぶつかる音だけが鳴っていた。今やどの家庭にも備え付けられているキッチンと一体化して姿を持たないコックの稼働音は、発売から長年の月日を経た結果、足音ほどに小さくなっていた。その音に注意を向け、縄張りに何かが入ってきたことを察知した熊のように落ち着きなく歩き回るミカは服を着ていなかった。

「ミカ、何か問題を抱えていますか?」

視覚器官をオフにするように言われたというのに何らかの方法で異常を察知したのか、アレックスはそう声をかけた。しかし、天井に埋め込まれたスピーカーから聞こえるアレックスの声をミカはまるで聞こえていないかのように振舞った。体も持たず血も通っていないものに心を開くことに対して、ミカは否定的で、その点で旧時代的だった。

「ミカ、心身に不調があるのなら」
「黙っていて、私が良いというまでは何もしないで」

ミカはアレックスを拒絶し、それ以降アレックスは何も言うことは無かった。「機械を使うんじゃなくて、機械から手を差し伸べてくるよう仲良くするの」といつか部屋に訪れた時にメイが言っていたのを思い出した。だけれどもミカにとって、アレックスは両親に差し向けられた監視装置としか思えなかった。
再び調理マシーンの稼働音と足音だけが鳴っていた。

ミカは堂々としていた。
両親から離れて暮らしていることや、恋愛経験が豊富なこと、高校1年にして既に高3のカリキュラムのインジェクションを終えていることなどが、ミカの自信の礎となっている。友人のメイやレイコ、両親までもそう考えていた。しかし、それは間違いだった。単にミカは誰も知らない裏技を知っているだけだった。

視界の端、部屋の隅っこのシートに包まれるようにして積み重なっているDVDケースとプレーヤーを観て、ミカは(もしアレックスがこれを見たらどんな反応をするのかしら)と、いつも高慢チキなAIが狼狽える姿を想像して少し微笑み、それから少し落ち着きを取り戻した。

ミカはキッチンへと行き、死体の処理がうまく進んでいるかを眺めた。透明なミキサーで、最新の防音によって静かに砕かれていく骨を見ていると穏やかな気持ちになっていった。肉は丁寧に骨と分けられて、皮膚と服(ミカの服もそこにある)は調理台とは反対側の壁に備え付けられてあるシューターに次々に放り投げられていく。まだ下半身はそのまま残されていたが、それはそれでこの後のことを考えると都合が良かった。

部屋の隅に重なるDVDは過激な流血表現を含むものだった。そして、それはミカに新たな思考を与えてくれた。過激描写を含む作品は、ミカの両親が生まれる2世代前ほどから消えたもののひとつであった。どういった理由でそれが決定され、どういった経緯でそれが許されたのかミカは全く知らなかった。ただそういう時代なのだと思えば難しくなかった。そういう時代の産物として、今の平和があるのならそれは正しいのだろうともミカは思っていた。都合も良かった。

暴力を忘れた世界だから、簡単に暴力を持ち込めるもの。

事実、暴力という概念自体が時代からとっくの昔に姿を消していた。それは言わずもがなAIとインジェクション教育によるものだった。

ミカがDVDとプレーヤーを発見したのは2年前だった。両親と一緒に暮らしていた当時、休日に電子世界に再現された自然へと気分転換に出掛けたときにたまたま目に入ったものだった。後に分かったことだったが、過激作品が規制されるようになってから、それらが完全に世界から排除されるまでの数年の間にコピーされたデータを偶然に使用していたため、当時の人間が隠したDVDとプレーヤーが残っていたのだ。その時ばかりはアップデートをサボる両親に感謝した。

それからミカは両親の目を盗んでは、たびたびその森へと入って映画を観た。一年経って、ミカは一人暮らしをする許しを両親から得た。当然だった。ミカは成績優秀で品行方正だった。倫理観を含む全ての教育データが直接注入される時代では誰もが品行方正と言えるが、それでもミカは突出していた自負があった。目的のために人道を演じていたからだ。目的は当然、存分に非道を楽しむためだった。
一人暮らしを始めてからミカは、データに過ぎなかった映画の数々を現実に反映させることにした。物質としてDVDを存在させる、なんとなくその方が愛着が湧くように思えたからだ。それと同時に本当に実行したいと思うようになっていた。そうして、長い年月をかけてじっくりと蝕まれるように、ミカは全く別の存在へと生まれ変わっていた。

控えめなインターホンの音が鳴った。
良かった、原型がなくなる前に来てくれて。ミカは安堵しながら、置いてあった新たな服を着てドアを開けに行った。普段はアレックスがやってくれるはずの動作だが、自分で何もしないように命じたのだから仕方ない。

「こんにちは」
「いらっしゃい、メイ。どうぞ入ってちょうだい」
「なんか久しぶりな感じだなー」

そう言いつつ、メイは靴を脱いで玄関をあがる。確かにミカは人どころか友達を呼ぶのも随分久しぶりだった。映画をいちいち隠すのが面倒になって、半年も家に人をあげていなかった。

「それにしても急に呼ぶなんてどうしたの?」
「えーっとね」
「そうそう。あのねぇ、ミカ、学校にたまには来て欲しいの。最近ミカが来なくなったからって、ケンタが調子に乗ってるの」

私がどうしてメイを家に呼んだのかの話をするんじゃなかったのかしら。

以前までのミカならこんなことで腹を立てていただろうが、もうそんなことは無かった。今やミカは殺人を知っていた。強盗も誘拐も監禁も拷問も強姦も、誰も知らない裏技であり必殺技だった。時代から排除された危険な知識を持つミカは古代のウイルスを隠し持つタイムカプセルに似ていた。

ミカは半ば押し込むようにして、メイをキッチンへと連れていった。メイはじゃれていると思っているのか、笑いながらほんの少しの抵抗を見せていた。だけど、ある瞬間に途端にその抵抗が岩のようになる。

「ミカ……なにあれ」メイは短く、それだけ言った。決してこっちを見ようとしなかったけれど、恐怖のようなものは触れる背中から充分にミカへと伝わっていた。それに対して、ミカは何故か自分を誇らしく思った。

「死体」
「誰?」
「右隣の」
「なんで?」
「なんでだろ」

その時、不思議なことにこれまでに無いほど二人は通じあっていた。少ない言葉数で、それ以上のものを分かり合えていた。現実味の無い風景を二人だけで共有しているからだろうか、秘密を見せることによる信頼の後付けなのか、それとも両者ともに頭のハムスターホイールを必死で回していたからなのか、テレパス同士のような一体感がキッチンに生まれていた。同時に死体処理を行う機械と死体は生存を分かち合う二人のちょうど反対に、それともどこか遠くに置き直されてしまった。

それどころでは無かった。

二人ともが黙り込んだ。ミカの黒い部分が背中からメイに侵入しようと動き始める。それにメイが背筋を伸ばし、緊張に汗が首を伝ったのがきっかけだった。ミカはその汗がメイのシャツに滲んだのを合図と捉え、そこからはあっという間だった。

◇◇◇

まず、メイを置き去りに世界が後退した。

そうではなく、ミカが私を突き飛ばしたんだと気付くよりも先にメイは腹部をキッチン台の角にぶつけて、うめき声を上げる。体を曲げると視界いっぱいに真っ赤な死体が映った。血なまぐさい光景に吐き気を催しながらも、踏ん張ろうとする足が滑る理由を、目を向けずとも血だと分かるほどになぜか冷静でもあった。慎重に身体を横に向ければ、包丁を自分の左手に振り下ろそうとするミカが居た。小さく叫んだメイは反射的に両腕を顔の前に引っ込め、包丁はシンクへとぶつかり嫌な音を立てる。

「あっ」

よほどの力を込めていたのか、強くぶつかった衝撃に耐えかねたミカの手は包丁を手放した。手を捻ったのだろう、顔をしかめながら流し台に転がった包丁の行方を目で追うミカに、メイは少し状況が好転したことを悟った。だが、直ぐにメイにとっては好転していても、ミカにとっては状況は悪化していることに気付く。そしてそれがミカの判断を鈍らせることにも。今にもミカは包丁を拾いに腕を伸ばそうしている所だった。

「だめっ!」メイの声。

しかし、興奮は静止の声をミカに聞こえなくさせる。ミカがシンクへと腕を入れたそれをトリガーとして、調理中に入り込んだ異物を取り除こうと、コックの腕がシンクから現れる。死体を処理するイカれたマシーンはキッチンのあらゆる部分を我がものとしていた。包丁をミカが掴むと、罠を仕掛けて待っていた生物かのように間髪入れずにアームはミカの手首を掴んでシューターへと運んでいく。

コックが作動している状態のキッチンに生物が立ち入ることは想定されていない。普通、そんなことが起きないように部屋に取り付けられたホームアシスタントAIが止めるはず。そこでメイはミカがアレックスの機能を停止させているとようやく気付く。なんて馬鹿なことを!

「アレックス!ミカを助けて!」

無理な方向に曲げられていく手首の関節に合わせて懸命にミカもからだをひねるが、そんな対処も限界がある。包丁はキッチンの床に落とされ、ミカの指は既にシューターに隠れてしまっていた。青ざめて、冷や汗を浮かべるミカの顔と、呑み込まれていく指先を見ていると、ミカが発する振り絞るような絶叫で満たされているはずのメイの耳には、木が嵐に揺れるような幻聴が聞こえた。骨が軋む音だった。

嵐は強かった。

メイは木製のチェアーに座りながら、震える窓ガラス越しに庭の木が揺れる様子を眺めていた。暖炉の火が部屋を守っていたから、すぐそばの出来事だというのに外の荒れた天気はまるで別世界のように感じられた。穏やかな気分だった。大木は枝を揺らし、葉を落としながらも必死に耐えているように見えた。でも、ほどなくして弾けるような音と共に、大木は根元から折れてしまった。

コックの動きが止まったのは、家主が気絶してアレックスに指示権が移ったからだった。手首の骨が折れたショックでミカの意識が去ったことが、不幸中の幸いだった。緩んだアームはそのまま無慈悲にミカの手首を地面に下ろした。

機械は止まり、ミカも気を失っている。嵐は去っていた。メイはこのあと自分がどうすればいいのか、少しだけ考えた。出た答えは何もせずに帰ることだった。後のことはアレックスが上手くやってくれる、機械とはそういうものだった。壁に手を付きながら、ふらりと立ち上がり一歩、二歩と歩き出す。五歩目には足取りは再びしっかりとしていた。そうして玄関の前まで来たときに、ふとメイはある思いつきに立ち止まった。

メイはその発想を思いつく自分に少しだけ驚いた。体の中に誰か知らない人間が入ってしまったかのような感覚だった。気の置けない仲のはずだったミカが既に隣人を殺していて、さらにその死体の様子を自分に見せた上で命を奪おうとしてきたという衝撃に順応しようとした結果、誰もが自分にあることを知らないけれど、誰もが生存の中にひっそりと隠し持っている部分が活性化してしまったように思えた。

ようするに、私は嵐を存外気に入っているらしい。

「アレックス、今の映像って貰える?」
「……分かりました。送信しておきます」

少しの沈黙があったのちに天井から返事があった。アレックスは家主のことをよく思ってないみたいだった。普通は渡してはいけないものだからだ。感情よりも論理を優先するべき事柄で判断を間違えるのは、そういった調整を受けたAIを導入しているからだ。ミカの両親はミカに感情をさらけ出せる友人が不足していると思っていたらしい。そう思うとメイは自然と笑みがこぼれた。帰ってから見る今日の映像への期待に加えて、何もかも失敗したミカへの嘲笑が加わっていた。

問題はいつまで映像だけで満足できるかだった。

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