妙な噂

「ケチャップを文庫本にかけてしゃぶると美味いらしい」

4月の初旬、ようやく桜が見ごろになってきたころ、こんな噂が学校中を駆け巡った。図書委員だった俺は、今までの閑散とした図書室の様子から一変、朝の駅のように殺人的に混み合う貸出コーナーに立って、押し寄せる人々を何とかさばいていた。

「先輩、そんなに美味しいんですかね?」

貸出コーナーの隣の窓口に座り、突き付けられる文庫本のバーコードを素早くスキャンしながら図書委員の後輩の高崎がそう聞いてきた。

「そうだと思うか?しゃぶっても、手垢の味しかしないだろう」

全く、本当に馬鹿らしい噂だ。もし本当に美味しいんだとしても、誰がそれを最初に確認したのだろう。よく、ウニを最初に食べた人はすごい、というような話があるだろう。ウニのあの、とげとげしいデザインの殻を壊し、わざわざ中の身を食おうと考えた人間が存在するということが恐ろしいぐらいだ。

「でも先輩、このラッシュももう一週間目ですよ。嘘の流行りとしては、長すぎるぐらいです。やっぱり本当はちょっと美味しいんじゃないですかね?」

「確かに、なぁ」

エイプリルフールに流されているのだとしても、もう一日からは一週間は過ぎているし、だいたい高校生にもなってエイプリルフールのネタに振り回されるのは馬鹿らしい。心のなかに、ほんの小さな興味がわくが、それを理性で摘み取った。5限の開始の予鈴が鳴り、蜘蛛の子を散らすように生徒たちは教室へと帰っていった。

「でも、この調子じゃこっちの体がもたないですね…」

ぼやくように高崎が言った。昼休みの間中スキャナーを持っていた俺の手は、確かに小さく震えていた。

次の日の昼休み、俺の図書室に向かう足取りはひどく重いものだった。というのも、生徒たちの手に渡った文庫本たちはその素晴らしい中身に目も向けられず、とにかくケチャップをぶちまけられ舐めまわされて、その残りかすを通学路や校庭の隅、廊下までにも無残に捨てられていたのだ。昨夜、図書委員全体にメールで校長直々のお叱りメールが届くのも、無理はなかった。そして、それらの責任はそれぞれの本を貸し出した図書委員にあるとされ、仕事熱心なあまりに貸出件数トップだった俺と高崎は、登校するや否や個別に職員室に呼び出され、今の今までこってり絞られていたというわけだ。

「責任が委員にあるっての、あれは暴論ですよ、ボーロン!」

「よっぽど教員側で責任の押し付け合いが発生したんだろうなぁ、糞ったれ」

高崎もぐちぐち悪口を言いながら横を歩いている。

「てか、見ました?数学のマッキーの机の上、あれケチャップでしたよね?」

マッキーというのはこの学校の数学教師のあだ名で、口ひげをマッキーで描いたら取れなくなった、というのが発祥だ。その頓智気数学教師のデスクの上に、赤々と太ったケチャップのボトルが置かれていたのは、俺も見ていた。

「教師のなかにもやってるやつはいるんですよ、文庫本ケチャップ。本当は美味しいのかな…? ね、俺らもやってみませんか?」

高崎が興味を押さえられなさそうに言った。

「図書委員の俺らがやるわけにはいかんだろ」

俺がそうたしなめるが、

「廃棄の! 廃棄の本あるじゃないですか! あれでやってみましょうよ!」

と食い下がる。普段は真面目で大人しい後輩なだけに、ここまで主張を強く出すところは始めてみた。その勢いに押され、しぶしぶ首を縦に振る。高崎はすぐに嬉しそうにほほ笑み、

「放課後、ケチャップ買ってくるんで、図書室で待っててください!」

と飛び跳ねんばかりの勢いで俺を追い越して図書室へ向かっていった。確かに興味はあるけれど、いや、不安だ。

放課後、いつも通りごった返す生徒たちが帰宅の鐘で帰った後、静かに空調の音だけがする図書室の中には、俺と高崎の二人だけが残っていた。高崎は何も言わずにニヤッと笑い、懐から、廃棄の赤いハンコが表紙に強く押された文庫本を2冊とマッキーの机にあったのより一回り小さい、こぶりなケチャップボトルを取り出した。

「購買に売ってましたよ、ケチャップ。商売上手ですね、やっぱり」

文庫本ケチャップの広まりに内心驚きつつも、高崎に差し出された本を受け取る。俺の本は谷崎潤一郎の「細雪」で、高崎のは森鴎外の「安寿と厨子王他」だった。こんな歴史的なものにケチャップをぶちまけていいのか、という逡巡は、静かで神秘的で背徳的な図書室と、高崎の真剣そのものの目、そしてなにより自分自身の胸の中から響く心臓の音に吹き飛ばされた。

「手順も聞いてきました。目を閉じてページをぱらぱらやって、良きところで止める。そこにかけて、すするだけらしいです。」

「良きところって何さ」

「良きところは良きところですよ。ま、どこでも変わらないってことでしょうね」

そう言って高崎は目をつむり、先にぱらぱらめくり始める。俺も目を閉じてめくり始める。せっかくなので中盤の板倉が死ぬシーンを狙ったが、どうやら少し手を止めるのが早かったようで、板倉はまだ病床に付していた。

「じゃ、かけますよ」

にゅるにゅるとケチャップが紙面にかかっていく。病に苦しむ板倉の顔に、赤い液が染みていく。気づけば高崎は自分の本にもケチャップのトッピングを済ませていた。

「せーので行きましょ、せーの」

合図にそろえて、本に口を付けた。ビビって目をつぶった俺は、その意外性の一切ない味に驚いて目を開けた。想像通りの、古い紙とケチャップの味しかしない。もっと言えば古い紙の匂いなどほとんどしないので、おそらくルーズリーフにケチャップを載せてもこれと同じ味がするんだろうな、という予想までつく。もう一人の方を見ても、何とも言えない、拍子抜けしたような顔をしていた。

「口ほどにもないですね」

申し訳なさそうな顔で高崎が言った。

「こんな杜撰な噂がよくもここまで広がったもんだ」

本をもともとあった廃棄本の集積場所に持っていき、ケチャップの芳香がバレないよう、うずたかく積まれた本の山の奥底に埋めた。

次の日から、噂は次々変わった。

「図書室の文庫本をバレずに盗んでいる間に限り、恋愛がうまく行く」

勿論、体に隠し持って図書室をすまし顔で出ていこうとしても図書室入り口のセンサーに引っかからず通ることは難しく、成功者は少なかった。

「図書室の文庫本のページを一枚破いて持っていると、幸せが訪れる」

噂初日から返却時のチェックを強化し、破損の犯人は数十人に及んだ。

「図書室の文庫本の……」

「図書室の文庫本の……」

「いい加減にしてくれよ……」

連日、絶え間なく変わる噂に振り回されているばかりだった。なんの恨みがあってこんな噂がバラまかれているのだろう。ご丁寧なことに、すべてに「図書室の文庫本」という条件まで付けて。文庫本、あるいは図書委員に親でも殺されたのだろうか? 思考を巡らせても、答えは出てこない。本好きから図書委員になったものとしての正義感から、今日の今日まで必死に水際対策をしてきたが、もうキリがない。

噂の根本を叩かなければ、根治はない。

昼休みまで残すところは2時間。噂について探る時間は十分でないにしろ、確かにあった。

隣の席の明世になぁ、と話しかける。

「図書室の噂、知ってるか?」

明世はその太った顎をプルプル震わせて頷いた。

「あぁ、図書室の文庫本を窓から投げると一生赤点になることはない、ってあれでしょ? いや、今回のテスト勉強してないからありがたいよね、個人的には」

噂は昨日からまた変わっていた。昨日は確か、「図書室の文庫本を逆側に折り畳めば宝くじの当たる確率が200倍になる」だったはずだ。噂の流れが速いな、と思いながら明世に聞いた。

「それって、誰に聞いた?」

あくまで狭い学校の噂だ。一つずつ辿っていけば、おおもとに行きつくのは時間の問題だろう。

「ウチのクラスの、誰だっけ、サッカー部のゴールキーパーのさ」

林か、と思い当たる。サッカー部で顔の広い、性格の悪いおふざけキャラだ。図書委員を馬鹿にしている彼に話を聞くのは心苦しいものだったが、仕方ないと割り切る。

いくつかの人を経由して、たどり着いたのは旧部室棟にひっそりとたたずむ「電波通信部」と書いたコピー用紙を看板にした小さな部屋だった。ほとんど誰も使っていないことでお馴染みである旧部室棟ではあるが、ここへたどり着く道やこの部屋のドアノブにだけはホコリが積もっておらず、ここに頻繁に出入りしている人間がいるということを表していた。ノックを3回し、住人が出てくるのを待った。しかし、いくら待っても反応は帰ってこない。しかたなく帰ろうと思ったが、念のため、と心のなかで言い訳をしてノブを回してみた。古びた外見と違い軽やかにノブは回った。ゆっくり力をかけて押していくと、電波通信部の内情が見えてくる。まず目につくのはその暗さで、パソコンから出る光と、机を照らすデスクライト一本で部屋の中全てを照らしていた。そして、壁に大きく貼られた「文庫本は全て毒だ!!」の文字。引き寄せられるように、部屋の中へ進んでいく。パソコンの画面に表示されているのは、海外のいわゆるオカルト掲示板で、この部屋の主もどうやらそれにひどく傾倒しているようだった。

「見ちゃったんですか」

声がして、振り返る。そこには見慣れた後輩の姿があった。

「先輩には最後に教えてあげようと思ってたんですけどね、文庫本の毒性を」

ため息をつきながら、高崎は近寄ってくる。じりじりと、俺は壁際に追い詰められていた。

「読書のし過ぎでどれだけの人が死んでいるか知ってますか? 毎秒5人、これは生きているうちでで本を読んだことのあった人間が死んでいる数字です」

あまりの衝撃に声が出なかった。頭の中で反論はいくつもできていたのに、肺の空気は喉をすべるだけで、意思を持つ音にならない。

「じゃ、先輩も“目覚め”させてあげますね……」

高崎はそう言って、俺に手を伸ばした……。

いいのか?心のなかでふつふつと怒りが湧いてくる。こんな暴論の化身のような人間に、このまま陰謀論者にさせられても、いいのか?心のなかの谷崎潤一郎が「ヨクナイヨ!」と言った。俺もその通りだと思った。森鴎外も言った。「ナグッチャエヨ!」俺もその通りだと思った。

気づけば、足元に高崎が倒れていた。右手が痛いし、彼の左頬は赤く腫れていた。

彼を見下ろしながら、ポケットから二冊本を出す。それはあの日俺たちが食べた、「細雪」と「安寿と厨子王他」だった。彼の手元にそれを備えるように置いて、俺は言った。

「ちゃんと味わって読めよ」

その日を境に、噂は消えた。

 

 

 

 

 

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