跳び箱が巨大になったら、小学生は絶望するだろうか。
少しはするかもしれない、今まで跳べていた7段が、その1段の厚さが増したことで飛べなくなったことに少しは絶望するかもしれない。
しかし、少しだけだ。
子供は挑戦することへのハードルが低い、失敗の恐怖という怪物もまた幼いからだ。だからこそ、子供は何度でも跳ぶだろう。大きくなった、体育館の天井をも突き破った7段の跳び箱へ何度でも跳ぶだろう。ロイター板は擦り減り、跳び箱の前面には爪痕が残される、同じように跳んでいた友人は1人、また1人と姿を消す。それでも、諦めない子供も居る。そして、いつか挑戦は日常へ溶け込み、脚力は想像を凌駕する成長を見せる。それでも跳び箱は越えられない。人間の域を超えた高さなのだ。
薄々気付いている、これは跳べないと。だが辞められない。費やした時間と意地のために。かつて子供だった少年は今日も跳び箱へと向かう。
「やぁやぁ、今日も跳び箱かい? 精が出るねぇ」
近所に住むおっさんだ。無職で独り身で気味悪がられているおっさん。突如巨大化した跳び箱が原因で捨てられた体育館だから、彼の侵入は容易かった。
少年は無視をして、跳び箱へと向かう。母親から話してはいけないと言われたことがあった。
「惜しいね、それじゃあいつまで経っても跳べやしないよ」
おっさんは少年の助走を見て呟いた。 少年はその言葉に無性に苛立ちを覚え、助走を中断して、端に置いてある水筒を拾って帰ろうとした。
「どれ、ひとつ、おじさんが飛んでやろう」
おっさんは少年を手で制し、軽くその場で跳ねてみせた。
(……っ!?)
少年は驚く。おっさんのその軽くやってみせた動きだけで伝わる、自分との練度の差に。殆ど力が入っていないはずなのに、空中で止まったかのように錯誤する空中滞在時間の長さ。自分が目指すべき、ひとつの境地を少年はおっさんの動きに見いだした。
「はっはっは、少しは興味を持ってくれたかな。さて、その目に焼き付けるといい、きっと君の助けになるだろう」
おっさんは少年にそう言って、跳び箱から距離を取った。
さっきの少年の助走とほぼ同じ距離、約15m、おっさんは走り出す。
はじめはゆっくりと、脚の回転を確かめるように大股に。
徐々に回転は速く、姿勢はやや前傾に。 その美しいフォームに少年は目を離せなくなっていた。目の前で起きている全てを自分の糧にせんと、ひと時も瞬きをする暇が無かった。
あと5m、速さがピークへと達した、その瞬間に───おっさんの脚が絡まった。
ザザザーっ、顔面から勢いよくおっさんは体育館を滑る。
やや沈黙、おっさんは顔を上げずに突っ伏している。少年は口をポカンと開けて停止している、が直ぐにため息をついた。
「なんか……もういいや」
体育館の突き破られた天井を仰いで少年は、そう吐き出し、そのままフラフラと体育館を出ていった。残されたおっさんは未だ顔をあげなかった。
少年は次の日から二度と跳び箱へと向かうことは無かった。少年は大人へと成長したのだ。無謀を理解したのだ。
翌日、おっさんはからっぽの体育館を見て、胸を撫で下ろしたのだった。
