自分の足音すら注意しなければ聞き逃すほどにうるさいひぐらしの鳴き声のなか、少年は小さな村をアテもなく散歩していた。
少年はつい先日にこの村に引っ越してきたばかりだった。夏休みのうちに環境に慣れさせよう、という両親の考えのもと、まだ学校が始まらないうちから引っ越したのだ。だがそのせいで少年にはこの村にまだ遊べる友人がおらず、しかし家に居ても仕方が無いので、こうして自ら沈みかけの太陽に焦がされるように歩いているというわけだ。
田んぼと民家と、ぽつぽつと点在する個人経営の小さな小売店や飲食店がこの村の全てだった。少年はいくつかの店前を通ったが、どこにも入ることはなかった。滲み出した冷房の風は涼しく、体は本能的に中に入ろうとするのだが、八百屋の活気と距離の近さや、雑貨屋の無秩序の中に隠れる怪しさは、少年が入りがたく思うに十分だった。
そんな少年だったが、古本屋の前では立ち止まった。店前の道まで侵食した本棚に気を取られたのだ。
「こんにちは」
立ち止まった少年に店の中から声がかけられた。若い女性の声に、少年が店の中を覗けば、店の奥のカウンターから女の人がこちらをじっと見ているのが見えた。両手の指で輪っかを作って、カウンターに肘をつきながら眼鏡みたいにその輪から少年を見る彼女に、少年は不思議と心惹かれた。
「こんにちはー……」
少年がおずおずと店に入ると、そこは不思議な匂いがした。甘いようなカビ臭いような、今まで一度も嗅いだことの無いそんな古本の香りに少年は少し驚く。店の中は左右に背の高い大きな本棚が壁のように立っているせいで、少し狭さを感じた。本と扇風機と、高い本を取るための椅子が2つ、あと姿見だけが店の中の全てだった。
「あはっ、変な匂いだよね」
いつの間にか店の奥から出てきていた彼女は、少年の気持ちを察したのか、おかしそうに笑う。店の奥に居た時は暗がりで分からなかったが、長い髪を彼女が金に染めているのが分かり、少年は内心驚いた。越してきてから、一度も髪を染めている人を見ていなかったからだ。
「初めて見る顔……ってことは、最近引っ越してきた田中さんの子かな? アタシはリカ。よろしくね」
「リカ……さんは僕のこと知ってるの?」
「田舎だからね〜、それにウチにも挨拶に来てたんだもん」
これが少年とリカの出会いだった。
リカは、高校一年生で夏休みに祖母の家に帰省している、らしい。ピンクのサンダルに、半パンとロング丈のTシャツの彼女はそれでも暑いようで、椅子に座って扇風機に「あ〜」と声をぶつけていた。
それから日が暮れるまで少年はリカと他愛のない話をした。2人とも外から来た人間なので、この寂れた田舎の文句で盛り上がれた。夜寝る時にカエルがうるさいとか、日陰が少なくて外を歩く気にならないとか、出来上がった田舎のコミュニティに入りづらいとか、お年寄りばっかでつまらないとか。そんな共感をを話し続けた。
「あ、そうだ。コレ」
日が落ちて、ようやく帰ろうという時、リカは少年を呼び止めて、出会った時のように指で輪っかを作ってそこから少年を覗いた。少年は彼女が何をしているか分からずに首を傾げる。
「こうやって指の輪っかを作ったら幽霊が見えるんだ」
「ほんと?」
「さあ、どうだろ? 帰り道、見えるかもね」
「あーーーーー聞こえない聞こえない!」
リカの思惑通りに少年は怖がって耳を塞いで、そのまま店を走り出してしまった。
「おーーい! 明日も来てねー!!」
セミの声がしなくなった夜のあぜ道、リカの元気な声は少年に届いた。
それから毎日のように少年は古本屋に通った。毎日、昼ごはんにカップ麺を家で食べ、直ぐに家を飛び出した。リカはいつもカウンターで少年を迎え入れ、外が暗くなるまでずっと一緒に時間を潰した。
行き先を聞くことも無く、「あまり夜遅くならないようにね、前の道危ないんだから」とだけ注意する少年の母の言葉は、無関心さを少年に感じさせ、余計に家から遠ざけた。
夏休みもう終わりに近づいている頃、自分の足音が聞こえないほどにうるさいひぐらしの鳴き声の中、少年はいつものように古本屋に向かっていた。
店の前まで来た少年は、電気が点いていないことに気付いた。今日は休業日なのだろうか、と首を伸ばして中を窺えばリカがカウンターでうなだれているのが見える。明らかに普通の様子じゃない彼女に、少年はどうしていいか分からず、向こうが気付いてくれるのを待つことにした。
それから五分ぐらい経って。
彼女がカウンターの机にあごを置き、伸ばした腕で顔の前に指で輪を作り、
「あっ、」
ようやく少年と目が合った。
「こんにちは!」
少年は彼女に悲しいことがあったことは察していたので、敢えていつも通りに接することにした。
それから少年とリカは出来るだけいつも通りに過ごした。本を読んだり、お菓子を食べたり、雑談をしたり、帰る時間が近くなる頃にはリカの表情はいつも通りに明るかった。
いつもと違うのは、今日彼女はずっと指で作った輪を目に当て、時々どこか遠いところを見つめていたぐらいだ。ここまで来ると、少年も彼女にとって近しい人が亡くなったんだろうな、と勘づいていた。
「僕もやってみようかな」
「えっ」
少年はリカの苦しみを少しでも共に背負いたいと思い、同じようしてみることにした。人差し指と中指で輪を作り、目に当て、一周ぐるりと店内を見渡す。だけど、やはり見えるのは姿見に映った自分とリカさんだけで幽霊なんて居ない。
内心幽霊が居なかったことに安堵しながら少年は指を解き、
そこで初めて、輪を通さない世界では自分が姿見に映っていないことに気付いた。
「アタシもおそろいにしようかな」
リカは一人きりの店内でピンクのサンダルを脱ぎ捨て、裸足になる。やはりひぐらしはうるさかった。
