「古本、5円」
こんな店があっただろうか。中高と通う通学路の帰宅途中に、ハルは普段全くと言っていいほど意識していなかった建物があったのに突然気づいた。その建物はくすんだ木造二階建ての薄暗い建物で、掲げられている看板には「屋本古タシノキ」とある。看板の表記を見るに、明治時代ぐらいの建物なんだろうと推測できる。そして、そのキノシタ古本屋のぴしゃりと閉まったホコリまみれのガラス戸の内側に、半紙に赤文字で「古本、5円」と書かれているのだ。絶対に怪しい。そもそもこの店がまだ生きているのかどうかさえ定かでないのだ。確かに、確かに好奇心は掻き立てられるが、この店に入る安全性と天秤にかけてどちらが重いかなど、一目瞭然だ。下手に入って、不法侵入などで親に迷惑がかかるのは避けたいし、何よりダサい。帰ろう、何もなかったかのような顔をして。ハルはそう決意をして、足を家の方へ向ける。さぁ出発だと思うものの、足が動かない。頭じゃわかっていても、体が先に決心していた。体に動かされるまま、ハルは古本屋のガラス戸に手をかける。木製の引き戸のくぼみは、ざらつきつつもまるで人間の手のような嫌なぬくもりを持っていた。開かないでくれ、と心のなかで祈りながら、ドアに力をかけスライドさせた。
開いてしまった店の中は想定通り薄暗く、ついさっきまで太陽の下にいた目には慣れるまでの時間が必要だった。ほこりの薄く積もった店の中には、背表紙の薄汚れて何と書いてあるかも分からない本が、異常なほどの正確さで本棚にピタリと収納されていた。店の中を見渡していると、店の奥から、タッタッタッタという小動物が駆けてくる音がこちらに向かってきた。音は一層強くなり、ついにハルの眼前へ迫った。しかし身構えたハルが気づけば、店内は先ほどまでと同じ、染み込むような無音であった。ここに長くいるのはマズい。本能的に、自分が望まれていない客であることを悟った。例えば、ここはヤクザか何かの秘密の会合場所で、「古本5円」の紙は何かとてつもない悪事計画の暗号だったり、例えば、ここはただの朽ちかけの古本屋で、今見たものあったものは全部、極度の緊張が招いた自身の思い違いだったり。とにかく、幽霊やお化けや呪の類でないことをハルは祈った。祈りながら、後ろ手で入ってきたドアのくぼみを探す。焦っているからか、なかなか見つからない。ざり、と人差し指と中指がくぼみを掠める。二本の指が、空中で金縛りのように冷たくしびれる。
「あら、お客様がいらっしゃいましたか」
突然かけられた声に、ハルは心臓が口から飛びださないよう堪えることしかできなかった。声の主は、店と奥の座敷のちょうど間の縁側のようなところに正座をした赤い着物を着た老婆だった。老婆の声はしわがれていて、顔はといえばその口角は耳にまで届くかというほど高く、目は半月のように薄くなっていて、とにかく異様なほどに笑顔だった。
「お客さん、もしかして表の紙を見たのかい」
空気が混じり、喉からひゅうひゅうと空気の漏れる音が聞こえる。ハルは青ざめた顔で、顔をブンブンと横に振る。しかし、その様子を見て老婆はさらに顔にしわを刻んで笑顔になっていく。
「嘘を言っちゃいけねぇ、表のを見たんだろ。そうか、そうか。やっとあれを見てここに来るマヌケが現れたか」
ひ、ひ、ひ、と老婆は笑った。ハルの顔はもう青を通り越して白だった。
「じゃぁ、」
と老婆が立ち上がる。
「この契約者に署名してもらおうか」
ずいと一枚の紙がハルの目の前に突き付けられる。目玉だけを動かして、何とか文字を読む。そこには、
「古本代金として、金20萬円」
と書かれていた。途端、ハルは叫んだ。
「いやこれ、明治19年の一円の価値を、令和五年のそれと警察官の初任給から比較して、逆算した時の5円の値段!!!!!!!!!」(参考:https://x.gd/js7Uk)
ハルは消費者相談センターに通報し、老婆は相談員に厳重注意を受けることになった。しかし年のことも配慮され、古本屋の店主はなんとかギリギリ輪っぱはかけられずに済んだそうな、めでたしめでたし。
