レンガの裏には

元はオレンジ色だったであろうレンガは、土に塗れて雨に打たれて黒く煤けていた。なんだかんだ言ってもウチの両親も通っていたのだから年季のある学校だ。運動場の端にある花壇と目を合わせてしゃがみながら、そんなことを考える。
校舎にくっついてる時計を振り返って見れば既に16時だった。いけない、もう彼女は待ちくたびれている頃だろう。僕は慌ててレンガの一本を片手で掴んで、そのまま上に持ち上げる。古びた花壇はぐらぐらで最早レンガが重なっているだけの壁と言っても差し支えない。その頼りなさは僕という存在に似ていた。だから簡単に持ち上がる、外せる。さっと慣れた手つきで裏側に潜んでいたそれを捕まえた僕は、教室へ戻ろうと立ち上がろうとした。

「だんごむし?」

彼女はダンゴムシをひらがなで発音する。

「七瀬さん……」

橙色の太陽光線から僕を隠すように立っていたのは七瀬八美(やみ)だった。放課後、僕に毎日ある頼み事をしてくる人物であり、僕は彼女のことをほとんど知らない。

「ごめん、ハサミムシは」
「居なかった」

僕が代わりに捕まえたダンゴムシを前に掲げるが、七瀬さんはひとつもそちらに目をやることなく、ただ僕の目を見て冷たい声で僕の言葉を補った。
長すぎる前髪が目を隠しているせいで僕はイマイチ彼女が何を考えているのかが分からない。一人だけ通年で冬仕様の黒セーラーを着て、一人だけ孤独に昼食を取る彼女は誰とも関わりが無かったはずだった。だから、僕も僕以外のクラスメイトも彼女がいったいどんな人物なのか知らなかった。そんな七瀬さんと最近になって突然関わりを持ち始めた僕だが、しかし僕の方が「知らない」クラスメイトより実は彼女のことが理解不能だった。

「それ、貸して」
「あ、うん」

七瀬さんに言われるがまま僕はダンゴムシを摘んだまま慎重に渡そうとする。すると途端にダンゴムシはまるで七瀬八美という存在が天敵とか水の中かのように、体を丸めることすらせずに逃げようともがき始める。それを抑えながら彼女がダンゴムシを手にすると、いっそう動きが激しくなる。いつも決まってそうだった。彼女が虫を持とうとすれば、虫は全力の抵抗を始める。詳しい理由なんて僕に分かる由もないけど、

「……不味い」

でも俯いたままダンゴムシを口に含んで咀嚼する彼女を見ながら僕は思う。それは恐らく本能というやつなんだろう。七瀬八美は捕食者なのだから。

「あのさ」
「……」

彼女が何者なのか、なんでもいいから今日こそは聞き出そうと僕は声を振り絞った。が、七瀬さんは俯いたまま返事をしない。
そして彼女はいつものように痙攣を始める。同時に何か硬いものが無理やり曲げられて軋むような音と何か柔らかいものが混ぜ合わされながら潰されていくような音が僕の耳に届く。その音の出処は七瀬さんの体だ。
気付けば七瀬さんの曲がった背中が、不自然にでこぼこに盛り上がる。右腕は伸びたかと思えばあらぬ方向へと曲がり、左腕も少し遅れて同様になる。徐々に彼女は人の形から離れていく。時々、首筋や手の甲など露出した肌の部分から赤い肉のようなものがはみ出すが、再び生き物のようにそれは彼女の中へと戻っていく。身体の中から逃げようとしている何かを押さえつけているようだった。運動場の砂に写る彼女の黒い影は人から離れていき、恐ろしい化け物の形へと変貌した。
いつものことだった。七瀬八美が虫を喰らい、人ならざるものへと変貌することも、そして今から再び人へと戻っていくことも。完全に化け物となった彼女は今度は、巻き戻しボタンを押したかのように人の形へと収縮していき、10秒と掛からずに見慣れた姿へと戻る。

「……」

何を考えているのか分からないが、ここで七瀬さんは俯いて後頭部を空に向けながら10秒ほど完全に静止する。人間の形を調整しているとかそんなことなのだろうか、いつか質問しようとしたが例によって無視されて失敗した記憶がある。
そんな彼女から目を離さないようにしながら、僕は再びレンガを拾い上げる。やはりそれは簡単に剥がれた。そのレンガを僕は精一杯の力をもって、目の前の化け物の後頭部へと振り下ろした。

「……」

乾いた衝撃音の後、僕が彼女に思い切り振り下ろしたはずのレンガは、少し離れたところで欠片となって落下していた。一方で七瀬さんは全く無傷で何事も無かったかのようにこちらへ視線を向ける。
これで彼女を殺すことに失敗して十二回目だった。

いつ僕は七瀬八美に必要とされなくなるのか。いつ僕はあの砕けたレンガになるのか。僕はどうにかして彼女を殺さなければならない。

この時、七瀬八美の目に映る僕が笑っていることに、僕はまだ気付いていなかった。

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