狭いアパートで俺、須藤アキラはいつも通りにネットサーフィンをする。カビた匂いのする布団はビール缶の結露で少し濡れていて、それを、あぐらをかいた足の甲で俺は感じ取った。死体のように冷たかった。
2ヶ月前の夜からずっと、腐ったプリンの味がする絶望の淵を舐める生活をしている。酔っ払った自分が野良猫と喧嘩して血だらけで敗北する動画がネットの海に流れたあの夜から。それはあらゆるSNSアプリで万バズを果たし、さらには素材と化し、それを使ったネタ動画も万バズし、今やほとんどの人間が俺の顔を見たことがある状況だった。
もちろん大学にもバイトにも行く気になれず、親から送られてくる説教や心配で味付けされたLINEも無視して、フードを被って少し遠いコンビニに行き、仕送りと貯金が消えていく日々。これからの未来の暗さにいっそのこと自殺も考えたが、そんな勇気もなかった。
「……はぁ」
また一缶を飲み干してしまい、溜め息は部屋の床に充満し、そこから逃げるようにもう一本ビールを取りに行こうとする。
その時、置いたスマホの画面にあった『#デジタルタトゥーオフ会』というハッシュタグが付けられた投稿が目に入った。
『第6回も無事終了!
新たな参加者も二人ほど増え、いよいよ大所帯となってきましたが……まだまだ参加者を募集しています!
ぜひ、デジタルタトゥーにお悩みで、ご興味がある方はDMまで!』
投稿には画像も添付されていた。
薄暗いレンタルスペースの室内写真で、パイプ椅子と安っぽい机がいくつか並んでいる。机の上には空いた酒瓶や缶、つまみの袋が散乱していた。それを囲むのは顔にモザイク加工が施されている人たち、男女比は半々ぐらいだろうか。酒に酔っているのだろう、無防備に脚を投げ出すスカートの女性が居た。俺はいつの間にやらその暗闇の三角形を拡大していたが、暗闇しか見えなかった。まるで明日みたいだった。
不毛で情けない時間を過ごした自覚のままにツイート主のプロフィールに飛んでみて、俺は初めてこの会合自体に興味を持った。投稿主はかつて街頭インタビューで『ハッピーなら良いじゃない』という言葉で一躍ネットの人気者となった『ハッピーさん』だったのだ。
画面を戻って、今度は投稿の詳細を開く。すると、「まさかあの人が来るとは」「次も絶対行きます」などのリプライがあり、その中には「猫に負けた人もそろそろ参戦しないかな」という言葉も混じっている。それの引用には件の動画が挙げられていた。煽り字幕つきで、上裸の俺が猫に引っかかれて情けない声を上げるたび、ゲーム的な被弾音が重なる。
「チッ……」
スマホを布団に放って、冷蔵庫を無造作に開ける。その瞬間に自分へと降り掛かった冷気が、真っ直ぐにアルコールで火照った頬にぶつかって、気まぐれを発動させた。
俺はオフ会に行ってみることにした。
◇◇◇
オフ会の会場は、渋谷の外れにある古いビルだった。エレベーターの内部には広告もなく、鏡は信じられないほどに汚い。いくつかのボタンは欠けていて、それらが与える未知の世界に来てしまったような感覚に俺は既に後悔していた。このまま存在しない階に連れていかれてもおかしくないほどに恐怖の匂いがした。
しかし現実はまだまだ頑丈で、エレベーターはきっちり目的の四階で降りる。DMで教えてもらった通りに蛍光灯が点滅する廊下を少し歩けば、目的のドアの向こうから人の声が漏れていた。
そこで足が止まる。
引き返すならここが最後のチャンス。脳では、あの動画が拡散された後に最寄りのコンビニで指をさされて笑われた景色が流れていた。その映画館では自分ひとりが観客で、あとの全人類は自分のことをどこか違う場所から観察していた。いつの間にこんなにも人を恐怖するようになったのか、俺は自分自身が戻れない場所まで変化してしまったことを自覚して驚いた。
「どうせ戻れないのなら……か」
そうひとりごちてから、一拍置いてドアを開けた。
視界に飛び込んできたのはツイートの画像と全く同じ景色、とはいえ集合時間よりも少し早く来ているので人数はその分少なめといった様子だった。ドアを開けた見知らぬアキラという人間に、三人の男と二人の女はいっせいに視線を向けて、その視線のぶつかりに少し緊張が走ったが、直ぐに部屋の中心に居た一人が立ち上がって、にこやかにアキラを迎える。『ハッピーさん』だ。
「もしかしてDMで連絡くれてた人?」
何度も動画越しに聞いたことがあった声だが、しかしそれなのに新鮮な優しい声だった。言葉の方向が猫に負けた男としてではない、正真正銘の自分に向けられているのように感じたからだろうか。
「あっ、そうです。知ってるかもしれませんが、アキラって言います。よろしくお願いします」
「だよね、顔は見たことあるよ。どうぞどうぞ、奥に入って」
誘導されて、アキラは椅子のひとつに座らされる。
「僕はリョウ、一応この集会の運営をしてる立場。ま、みんな良い奴だからすぐに仲良くなれると思うよ」
『ハッピーさん』の名前はリョウさんというらしい。話してみると普通の人間で、デジタルタトゥーでネタにされてる人もただの一般人であることを俺は改めて実感した。そして自分にとってもそれは他人事では無いことも。
「なあなあ、ちょっと聞こえてきちゃったんだけど、アキラ……って、あの猫の人? そうだよね、オレ見たことあるもん」
直ぐに部屋の奥で他の人と談笑していた一人の男かそう言いながら、近付いてきた。空のコップに酒を注いで、それを渡してくるその男は金髪でピアスを開けて、口をだらしなく開けながら喋っている。俺は、俺の答えを待つ間もずっと開いている唇の間の暗闇に吸い込まれそうになって、そんな未知の感覚に困りながらも頷くと、金髪男は心底嬉しそうに顔がほころんだ。
「うっわ、やっぱりマジ? おい、来たぞ、猫の人!」
その声に、奥のほうに座っていた数人が続々と立ち上がって俺を取り囲むように近付いてきた。その誰もがヒソヒソと笑うようなものでなく、清々しいほどに真っ直ぐな興味を溢れさせていた。見世物としてでは無かった。教室に話しかけずらいけどめちゃくちゃセンス良さそうな人間がいて、そこにあった壁をあるムードメーカーがぶち破った時みたいな感じだった。
「マジで?」
「猫とバトってたやつ? あれホント大好きなんだよな」
「『やめろ、ニャー!!!!!』ってやつな。あれのAI音楽ずっと聴いてる」
笑ってはいるが、決して見下してきてはいない。今までと違う反応にアキラは少し困惑した。なんだか同類同士の傷の舐め合いのような、もしくは恥ずかしい武勇伝を語り合っているかのような空気感がそこにはあった。
そんな考えを読み取ったのかリョウさんは後ろから座っているアキラの肩に手を置いた。
「ここ、みんなそういうやつだよ。例えばコンビニのアイスケース入って写真撮られたやつだったり、電車で座り込んで弁当を食っていたのをテレポートと例えられたやつ。隣の金髪の彼は彼女に泣きながら土下座して蹴られているとこを拡散されたやつ。あそこの人は“ピザ配達、下半身裸”でバズったやつ。な、いろいろいる」
リョウさんは部屋を見渡して満足そうに微笑んだ。何人かがドアからまた入ってきて、みな好き好きに話し合っていた。笑い声が響いていた。
そんな空気感と久しぶりに目を見て人と話せることの高揚のままに、いつの間にか金髪男から貰ったコップの中身は無くなっていた。そして自分を囲む仲間に俺は勢いのまま自分の話をした。
あの夜、酒に酔って猫に餌を上げようとしたら威嚇されたこと。周りの他の酔っぱらいに上裸にさせられたこと。猫の爪に全身派手にやられたこと。その様子を撮られて、どこまでも拡散されていったこと。気づいたら、自分の生活のいろんなものが崩れていったこと。
それを聞いた誰もが驚くほど真剣な顔で相槌を打つだけだった。
「いや、分かるよ。自分の顔が顔も知らない誰かにネタにされてる怒り」
「私も半年は家から出られなかったな〜、連絡先とかも全部消したりしてさ」
「ここが無かったら俺はとっくに自殺してたよ、仕事だって見つからなかっただろうし」
ここに居る全員が同じ苦しみを生きている。ただ俺と唯一違うところがあるとすれば、彼らはみな苦しみを乗り越えた過去のものとして語っている点だった。それに気付いて、それから俺は自分の頭が珍しく回転していることに気付いた。
そこからはただ楽しくおしゃべりをした。一時間ほど経っだろうか。せっかく回転していた頭は酔いが回って回らなくなり、話すうちに少し視線が上を向くようになってきた頃、俺は空間に馴染んでいない存在が一人だけいることに気付いた。
壁際のパイプ椅子に座って、誰とも話さず、じっとこちらを見ている痩せた女。長い髪が顔の半分を隠していて、笑っているような、笑っていないような、変な口元の女。
「あの人は?」
俺がそう聞くと、リョウさんの口調が少しだけ曇った。
「小野ユウコさん、いっつもああやってるんだ」
気付けば俺は酔った勢いのまま声をかけていた。ご存知の通り俺は酒癖が悪く、制止する声も聞こえていなかった。ただ酒だけが理由というわけではなく、彼女がまとっている孤独が自分の中のそれと似ている気がしたからでもあった。
「なにを見てるんですか?」
小野ユウコはゆっくり顔を上げた。目は合わなかった。でも、こちらを見ていた。
「……ねえ。私のこと、知ってるでしょ?」
「え?」
「電車の中での、あれ、見たよね?」
声は小さく、でもはっきりしていた。
電車の中、長い髪、デジタルタトゥー。脳内検索は一瞬で小野ユウコがここに来る資格を持つ理由を見つけ出した。それほどに有名な話だった。
「まぁ、見たことある……かな」
嘘をつくわけにも行かない。俺が歯切れ悪くそう答えれば、小野ユウコは口角を上げて笑ったかと思えば目はそのまま、氷のように無表情でこちらをさらに見透かす。
「面白かったでしょ? あれ。ウケたでしょ?」
「あぁ面白かったよ」
言ったあとで、背中がぞくりとした。
そんなことを言う気はなかったのに、自分の意図とは正反対に本心を引き出されたこと。言ってから気付くほどに無意識だったこと。なにより小野ユウコの表情が、一瞬だけ壊れたこと。それはゴミ箱に捨てるためにぐちゃぐちゃに丸めたプリントを、もう一度拾って広げ直したみたいな表情だった。
俺がそれに固まっているとすぐに無表情に戻って、「……そっか」とだけ小野ユウコは呟いた。
俺は自分の身体が内側から冷えていくのをはっきりと感じた。リョウさんやみんなのところに戻るまで、何度も喉の奥を詰まらせながら唾を飲み込んだ。
「……あの人なんなんですか」
リョウさんは何も答えなかった。
◇◇◇
次の集会は翌月だった。
あれから、小野ユウコのことを何度も思い返していた。あの「面白かったでしょ?」という問い。あの異様な顔の歪み。誰に見せている笑顔だったのか。誰に向けて言っていたのか。そんな気になることはあるけど、それでも俺の足はオフ会へと向かっていた。
少し早く着いて、扉を開ければリョウさんが一人で机を動かしたりコップを開けたり準備をしている。
「お、早いね」
「後から入ってくるのは緊張しそうだったんで」
「はは、まぁ分かるよ」
机を反対側で持って動かすのを手伝いながら、言葉を交わす。その時、リョウさんの表情がこの前会った時より暗いことに気付いた。
「なんか……いや違うかったらいいんですけど、悩みごとあります?」
「あ、顔に出てた? いや、たいしたことない……ことも無いんだけどさ」
明らかに言い淀むリョウさんに俺は反射的に「なんでも言ってくださいよ、同じ仲間じゃないですか」と声を掛けていた。少し前までの隙あらば棺桶のデコレーションを考えていたような自分から、随分と変わったものだ。
「僕、少し調べたんだ。やっぱ……彼女、小野ユウコはもう死んでるらしい。二ヶ月前、首吊り自殺で」
「……は?」
「信じるかどうかは任せるけど、SNSアカウントも更新が止まってるし、地元のニュース記事に名前が出てた。僕の知り合いが近くに住んでて、知ってるって言ってたしさ」
冗談には聞こえなかった。なにより、リョウさんの声が妙にかすれているのが、まるで風邪でもひいているような力のない声が、話に信ぴょう性を持たせていた。
「でも、だったら……どうして来てるんですか」
リョウさんは、しばらく口を閉じたあと、静かに言った。
「……残ってるからかも、ネットに。彼女の動画。たくさんある。笑いものとして残されてる。あれが消えない限り、小野ユウコも消えない。いや、消えられない」
脳裏には、ふと昨日YouTubeでおすすめに出てきた“まとめ動画”が浮かんだ。そこには自分の姿もあれば、小野ユウコの姿もあった。再生数は百二十万。コメント欄は嘲笑と中傷で埋まっていた。
俺もリョウさんも黙り込む、実際に小野ユウコが人間でないということが分かったとして、自分たちに何か出来るわけてもないし、どうすればいいかも分からない。
その時、ドアが開いて行き止まりのような空気は暗がりの廊下に逃げていった。入ってきたのは、一人の男。その顔には見覚えがあった。前回の集会で、向かいに座ってビールをこぼしていた、冴えない中年の男だ。
「な……」
軽く会釈して迎えようとしたが、隣でリョウさんの顔が青ざめていることに俺は気づいた。
「え……あ、あの人の葬式に……俺、行ったんだけど」
リョウさんの声は、それどころか手も脚も明らかに震えている。それを他所に男は、ふらつきながら会場を横切り、部屋の隅に腰を下ろした。何も言わず、目を閉じて、ただじっとしている。
あの人の葬式に行った、つまりいま自分たちの視界に映っている人間は死んでいるということで、じゃあここに居るのはおかしいということで。小野ユウコの話だけでも精一杯だった俺の頭はパンクしそうだった。
「あの……冗談、ですよね」
「冗談だったらどれだけいいか」
その言葉に俺は何も言えなくなる。俺もリョウさんも男も誰も何も話せない時間となった。他の参加者も徐々に集まってきて、それぞれで談笑が始まってはいるものの、男とはどこか距離を置いている。その男は、誰とも話さず、ただそこにいるだけだった。
その時、どこからかくぐもった笑い声が聞こえた。
血管が萎縮していると錯覚するほどの不気味なその声に振り向けば、後ろにぼうっと立っていたのは小野ユウコだった。
やっぱり笑っていた。苦しみを堪えるような、喉の奥で何かを押しつぶすかのような音を鳴らして口角を引き攣らせていた。ただ目だけは虚ろで、相変わらず心の奥まで見透かしてくるようだった。
「おかしいの、誰も私を忘れてくれないの」
水滴のような声が聞こえているのは俺だけのようだった。別世界に隔離されたかのような不安定な足元と、他のみんなの声が壁を通したように遠い違和感の中で、俺は小野ユウコと向かい合っていた。
「死んでも、ネットに残ってたら終わらないの。消えない。笑われ続ける。私がどれだけ消しても、誰かが保存して、転載して、また笑う。笑うたび、私はここに戻ってくるの。戻されるの」
小野ユウコの姿は徐々に変化し始める。目の焦点が合っていない。頬は不自然にこけ、指先が痙攣している。吐瀉物が服に付いて、手首から血が大量に溢れ出す。人ならざる関節の角度と吊られているかのように上に引っ張られている首が俺の恐怖を煽る。
そんな俺に小野ユウコは全く関心が無いかのように言葉を発し続けた。
「この場所に集まる人は、みんな残った人たち。笑いものとして残った人たち。ネットという海に溺れた人たち。世界に縛られて、死んでも自分が嘲笑されているのを苦しみながら見続けるしかない人たち」
「……」
「あなたも同じ。私を笑ったあなたも、ね」
「そんなの、ただの……ただの動画じゃないか」
ただの動画。俺がバカをやらかして、世界全員に笑われようとも直接危害を加えられているわけじゃない。誰も俺に本当に苦しんでほしくて笑っているわけじゃない。
俺の言葉に小野ユウコは馬鹿にしたように笑った。それとも、自分と同じ苦しみを味わう同類に、ただひたすらに恐怖を植え付けたいかのように笑った。そこで俺は分かった、小野ユウコがなぜいつも笑みを浮かべているのか。
「いいや、これは呪い。見られるたびに、笑われるたびに、記憶されるたびに、私たちは刻まれるの。皮膚じゃない。脳に。社会に。魂に」
突然、部屋の照明が消えた。それと同時に小野ユウコの姿も闇に溶ける。はっきりと周囲の困惑が聞こえるようになり、リョウさんはみんなを落ち着かせようと声を張り上げていた。
しばらくして電気は復旧して、集会はいつも通りのように進んでいく。誰かが冗談を言って、誰かが缶を開ける音がして、笑い声が弾ける。でもそのどれもが、録音されたテープのように感じた。決まってるバッドエンドまでの作り物の時間のようだった。
俺はゆっくりと、スマホを取り出して、画面を開いた。そこには猫に負けた男としての俺が、無数のコメントと一緒に、まだ笑われ続けていた。その下に関連動画として、小野ユウコの姿があった。再生数は二百万を超えていた。
再生はしなかった。
でも、そのサムネイルの彼女の表情が、ほんの少しだけこちらを見て笑っているように見えて、俺は反射的にスマホの電源を切った。
「消せないんだよ」
誰かが呟いたような気がした。いや、もしかすると、俺自身だったのかもしれない。
きっと、もう誰もいなくなったりはしない。
誰も、救われたりはしない。
