中学二年生の夏から、決して忘れない光景。
「きもちわる」
って、呟く彼女。
虫ケラでも見ているかのような目で、教室の床に座り込む僕を彼女は見上げる。廊下から差し込む光で僕は彼女を影の中に閉じ込めた。そんな光とは逆に、その人の中に入れるような感覚があって、僕は精一杯に息を吸った。
それから僕は、あの高揚を求めて生きている。
◇◇◇
「昨日のワールドカップ見た!? ○○のゴール!」
「見た見た! あれヤバかったよな!」
昼休み、窓側後方の席ではそんな会話が繰り広げられている。時折どっと起こる爽やかな笑い声は騒がしいが、それに文句を言う者はいない。会話の内容は専らスポーツや、スマホゲーム、そして恋愛だ。
「凛、前言ってた人とはどうなったの?」
「えー、別に何もー? 何かビミョーだったし」
そんな男子たちのすぐ傍、少し媚びたような声でワザと声を大にして大人びた恋愛を語るグループが居る。きゃぴきゃぴ、が似合う一軍の女子たち、ちょっと私的には怖い存在。
「○○離婚したんでつか!? メシウマ!」
「ゴールデンロブスター獲れたでござるか?」
「おっ、獲れましたよぉ! 蛇川氏のお陰ですなぁ」
一方、廊下側前方では早口かつ滑舌の悪い声が聞こえる。ゲームの話や声優、アイドル、アニメといった話で盛り上がる彼らはカーストで言えば1番下。だが彼らは彼らなりに青春を楽しんでいる一種の勝ち組。
一番高校生活を楽しめていないのは私を含む、後に残った者たちだ。ちょっと地味目で真面目な女子グループ、良く言っても二軍、悪く言えば溢れ物の漂着点。
もしくは、少し大人しめで趣味に熱中出来ない男子達。彼らは彼らで海に浮かぶ孤島のように点々と数人のグループで食事を取っている。
あと特筆すべきは個として、黙々と虚空を見つめ今日もカロリーメイトを食らう夜地(よじ)つばめ。何故か一人真っ黒なセーラ服を着る彼女ぐらいだろうか。
そんな昼休みの、明確に立場が可視化される風景を佐藤美月は何となく観察していた。それは、たいした話題もなく毎日のように同じ会話をする食事仲間のエンターテインメント性に飽きたからでもあり、それは学級委員長として何か問題が無いか自然と確認したいがための行動でもあるかもしれない。
だが特段変わったことが起きる訳もなく、いつものようにお弁当箱を片付けて、あと五分で次の日本史の授業が始まるというその時、意外な人物が美月に話しかけてきた。
「なぁ、ちょっといいか?」
宇藤朝日くん、いわゆる一軍男子のその中でも一軍。だから、美月とはほとんど関わりが無かった。もう今年度が始まって2ヶ月が経つ6月だというのに、会話としては先生の言伝に頼まれての1回ぐらいだろう。
宇藤くんの背中の奥でこちらを窺う目が気になった。舞坂さんの、睨むようなその視線が。
「はい、どうしましたか?」
美月は同級生だろうと、友達であろうと敬語で話す。幼い頃に両親と居る時間が短かったが故の責任感がずっと彼女を大人であるように縛ってきたのだ。だから美月はいつも学級委員長だったり、生徒会長だったり、そういうリーダー役を押し付けられてきた。そのせいか敬語が染み付いてしまっていた。
「今度期末テストがあるじゃんか、ちょっと数学分かんねぇとこあって……今更センセに頼むのもさ……」
「良いですよ、放課後ならいつでも。と言っても力になれるか分かりませんが」
「まじ!? 佐藤さんが居りゃ千人力だって! じゃ、早速今日頼むわ。サンキューな!!」
美月が快く引き受ければ、宇藤くんは大袈裟にお礼を言ってそのまま、また仲間の方へ戻っていってしまった。
美月が引き受けたのにはいくつか理由がある。いつも不真面目な宇藤くんが勉強を、と言っていることに素直に感心したのと、ここで断ることが彼女らしくないと自分でも分かっていたからだ。しかし、そんな理由よりなにより、放課後二人で勉強するという恋の釣り針に美月も食い付いてしまう平凡な乙女だったからである。
「なるほどね……」
舞坂さんの、そんな声が昼休みの喧騒の中のはずなのに私にハッキリと届いた。
◇◇◇
夜地つばめは教室の中に入れなかった。廊下に座り込んで中の笑い声を聞いていた。
教室の中では、宇藤と佐藤が机をくっつけて、ノートと計算用紙を広げながら勉強をしていたからだ。その青春らしい青春の中を素知らぬ振りをして突っ切って行けるほどにつばめは感情が無いわけでは無かった。
(困ったな……カバン置きっぱなのに)
つばめは放課後になればいつも図書室に篭って本を読む。別にそうしたくてそうしている訳ではなく、ただ家に帰りたくないというのと、その暇を潰す友人が彼女には居ないのが原因だった。
何となくセーラー服を黒色にしてみた。なんとなく上履きをサンダルにしてみた。なんとなく無口キャラとして高校デビューをしてみた。なんとなく偏食キャラとして昼食をカロリーメイトにしてみた。なんとなく病弱っぽい雰囲気を出してみた。
つばめが孤高に生きているのは単に、彼女の、中学二年生から脱却出来ていなかった感性がさせたそれら全てが大失敗だっただけなのだ。何度彼女自身が後悔をしたか。先生に怒られた時に辞めていれば、先生に心配され始めた時に辞めていれば。だが高校二年となってしまった今では、全てとっくに遅かった。
(私もああやって友達と話したかったなぁ)
「……夜地殿? どうしたんでつか?」
「わぁっ?!」
突然横から声を掛けられて、つい、つばめは大声を出してしまう。が幸いなことに宇藤の笑い声と被ったおかげで、二人には届いていないようだ。
「……蛇川」
苗字呼び捨て、これも彼女のキャラ付けから始まった未だ辞められない一つ。本当は君付けで呼んだ方が好印象だろうに、といつもつばめは後悔している。
「そうでござ、蛇川見参!」
「……静かに」
「あっ、これは失敬失敬……拙者気遣いに慣れないもので」
あんまり音量、変わってないけど……とつばめはちょっと呆れる
蛇川康雄、クラスの中ではつばめの次に悪い意味に目立つ存在。特徴的な喋り方と調整ツマミが壊れたかのような大きな声、そしていつも数人引き連れている同じ属性の仲間が、彼を一際目立たせていた。
(そう言えば蛇川くんは引き連れるとか、子分とかそういう表現を嫌がる節があるんだったっけ)
去年、宇藤のような陽の男子たちが蛇川に絡んでいた時に、その中の誰かが「子分」という言い方をして蛇川が憤慨したのだ。その剣幕は凄まじいもので、それ以降は蛇川達にオタクだからと馬鹿にするような奴らは居なくなった。
それを思い出して、つばめはさっきの思考を訂正しておく。
見た目や喋り方こそ少し気圧されるものはあるが、
「……案外悪い人じゃないのかも」
「んん?」
(あ、しまった)
慣れない会話のせいか、つばめはいつの間にか思考を声に出してしまった。それに気付いた一瞬で顔が赤くなっていくのが自分でも分かって、その真っ赤な顔を見られるのを想像してもっと恥ずかしくなった。
「禿同ww 宇藤殿は悪い人じゃ無い……いや、そんなこともないでつが。まぁあの青春ATフィールド、入りづらいのも分かるでござる!」
何を勘違いしたのか宇藤の話だと思っているし、だけど教室に入りづらいという後ろの部分は正確で、つばめはどう返事をしたらいいのか分からなくなる。
「バッグを取ってくればいいんでつか? 拙者に任せるでござる」
「えっ……」
「瞬歩!!」
つばめが止める間もなく、蛇川はカタツムリが欠伸するほどの走りで教室に入っていった。
◇◇◇
佐藤美月は浮かれていた。ここのところ毎日のように、宇藤くんと放課後教室で二人きりで勉強会をしているからだ。
問題のテスト、それが過ぎた後に自分たちの関係がどうなるのかは分からなかったが、それでも今ある青春を精一杯に美月は楽しむことを考えていた。
そんなある日、宇藤くんから美月はある提案をされた。
「佐藤さんさえ良ければなんだけど、今度ウチ来る?」
「えっ!?」
思わずおっきな声が出てしまった自分に美月はちょっと恥ずかしくなる。が、彼女にとってそれほどに重大な話だった。良い感じの男女、男側が急に家に誘ってくる。それが何を示すかぐらいは美月は理解していたのだ。
もし一回目でそうならなくとも一度家に行ってしまえば時間の問題な気がした。
(どうすればいいのでしょうか……)
何故かいつかの舞坂さんの視線がフラッシュバックした。それにいつもお昼を食べている他愛もない話をする彼女たちの顔も。
舞坂さんと彼女たちが「行くな」「行かないで」と言っているような気がした。
「ごめんなさい、遠慮させていただきます。そういうの厳しい家で……」
「そっか」
露骨に落ち込む宇藤くんに美月はちょっと悪いことをした気分になる。だけど、彼女は断ったことに後悔はしてなかった。
ひとつは念の為。高校二年生とはいえ、まだまだ未成年で、そういう関係になるのは良くない気がした。彼女がずっと求められてきた大人らしい視点がそう言っていた。
ひとつは怖かったから。一度でもそういう関係になってしまえば、毎回求められてしまうかもしれない。もしくは一回で終わってしまうかもしれない。答えが出てしまうのが怖くて、まだこの関係を継続したかったから。
◇◇◇
夜地つばめは、今日も蛇川と図書室に来ていた。ここのところ毎日のように二人は一緒に図書室で本を読んでいる。
「……どう、だった?」
「ええ、ええ、これは非常に素晴らしいでござる! 特に○○の感情が繊細に書かれているのがグゥっと来ましたよぉ」
「……そ、良かった」
また自分と同じところを取り上げる蛇川につばめは内心驚く。趣味が合うというか、ものの捉え方や考え方が似ているのだ。
「著者の△△氏自体は『雷音』……直木賞受賞の、で知っていましたが、個人的には『雷音』よりこちらの方が好きでござるなぁ」
「……ね」
案外、蛇川はライトノベル以外の本も嗜んでいるらしく、特に純文も読むと聞いた時には、つくづく偏見とはあてにならないものだとつばめは実感した。
自分が勧めた小説を読んでくれ、感想も意見が合うのだから、これは友達と言って良いのでは、と彼女は考え、だが友達とはどこから? とも彼女は悩む。
(あーあ、私もライトノベル読んどけば良かったな)
蛇川が自分の趣味に合わせてくれているのだ、自分もそうした方がいいだろうとつばめは考える。と言っても、蛇川は「合わせている」なんてことを微塵も思っていないだろうと彼女は知っていた。彼女の中の折り合いの問題なのだ。
(あれ?)
ふと、なんとなくスカートのポケットに手をやって、そこにあるはずのハンカチが無いことに気づいた。教室の、机に置きっぱなことを思い出す。
「……忘れ物」
「ぬっ、じゃあ拙者もお供しますぞ! またいつぞやのように教室に入りづらい可能性大アリでござるからな!」
「……ん」
(優しいなぁ)
好きなものを胸を張って好きと言える蛇川の、自分には決してない自信。それに加えて優しい一面がある彼を、つばめは尊敬していた。
◇◇◇
いつも通りの勉強会。テストまであと2日、だがそこまで美月は宇藤くんの成績については心配していなかった。
普段の悪く言えば粗暴、良く言えば陽気な彼のはしゃぎ具合が信じられないほどに、宇藤くんは真剣な表情で毎日勉強に励んでいたからだ。
初めの数日こそ基礎的な公式や、典型問題を教えていたが、ここ最近はほとんど実践をして、間違えた部分を二人で復習するという方式を取っている。
「ふぅー、60分っと。ギリギリ出来た感じする!」
「私も結構出来ました。簡単な方だったかもしれませんね」
「えぇ〜、これで簡単な方かぁ」
カーテンも閉めて、時間も計って真剣に問題を解くのはかなり疲れる。二人ともヘトヘトだった。
このテスト方式のやり方を提案したのは美月だったが、ここまでちゃんとやるのは想定してなかった。ちゃんと、というのはカーテンを閉めたり、時間を測ったり、点数を記録していったりするという宇藤くんの提案のことで始めたことだ。
そのお陰で結構、自分の勉強にもなっている。恋愛の面でも勉強の面でも、美月は自分が充実しているのを感じていた。
「少しお手洗いに行ってきます」
「ん〜、行ってら〜」
◇◇◇
カーテンの隙間から、教室の中を覗く。2人並んで窓に張り付く様子は傍から見ればトーテムポールみたいで滑稽かもしれないが、そうは言ってられない事情があった
「……見、た?」
「舞坂さんを呼ぶでござる」
◇◇◇
途中、美月がトイレに立って戻ってきて再び再会して15分が経とうとした時、ふと、彼女を言いようもない気持ち悪さが襲った。ノロウィルスの時と同じような、でもそこから倦怠感を抜いた吐き気。ただ吐き気だった。
「ちょっと……」
「ん? どうした、佐藤さん?」
思わず俯いてしまう美月に、宇藤くんは心配そうに顔を覗き込む。が、その顔を美月は手で払い除けて、横を向く。
「ごめんなさい、なんかちょっと体調悪いみたいでsっ……うぇぇ゛……うっ、え゛ぇ」
ぺしゃぺしゃ──と吐瀉物が、教室の床に散らばる。美月は咄嗟に手で抑えようとしたけど無駄だった。堪えようも無いほどの吐き気に、せめて宇藤くんから見えないようにと背を向こうとする。
「どこ行くんだ?」
が、それは宇藤くんに肩を掴まれたことで阻止される。
「僕……じゃなくて俺が、そういう薬を飲ませたんだ。佐藤さんが吐くとこ見たくて」
「う゛ぇぇ……え゛ぇっ……」
(えっ? なんで……っ!?)
美月の頭の中ではそんな言葉が浮かんだが、思うように喋られない。喋ろうとすれば先に嘔吐してしまう。そのまま教室の床に美月は倒れ込む、視界が回って立っていられなかったのだ。
それを待っていたかのように宇藤はカバンの中からロープを出して、美月の手を後ろ手で縛る。
「イイよぉ……うん、凄くイイ」
宇藤はもうマトモな精神状態では無かった。目を血走らせて、恍惚とした表情のまま服を脱ぎ出す。彼は全裸となって、その美月の吐瀉物の上に転がった。
(きもちわるい。きもちわるいきもちわるいきもちわるい!)
床に散らばった吐瀉物を、精一杯に体に塗りこもうとする宇藤がきもちわるい。いつの間にか盛られていたらしい薬のせいで、胃の中がきもちわるい。吐いたせいで自分の口の中がきもちわるい。拘束してまで、自分の様を見せつけてくる宇藤がやっぱりきもちわるい。
受け止めきれそうにない意味の分からない事態のせいか、それとも薬のせいか、美月の意識が朦朧とし始めた、その時。
──パシャッ。
というシャッター音が教室のどこかで鳴った。その音に宇藤は、ばっと上体を起こしてドアの方を向く。
「はい、撮影完了」
そこには、舞坂さんがこちらをスマホを構えた状態で立っていた。教室のドアにもたれながら、冷たい目で。
「あんた、中学の時アタシの友達殴って吐かせただろ。ずっとしっぽを出すのを待ってたぜ」
「あぁ、あの経験が原点だった……」
「ちっとは焦りを見せろよ、つまんねぇ。まさか薬まで使うとはな、蛇川と夜地が居なきゃこの瞬間は抑えられなかったぜ。ま、結果これで証拠は完璧だ」
宇藤は舞坂さんを無視して吐瀉物に再び寝転がる。そんな宇藤に舞坂さんは冷たい目を向けた。
「エメトフィリア、全くもってきもちわるい」
舞坂さんはそう、吐きすてた。
